曙光とは、朝の太陽の光であることは、説明は不要であろう。
ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、キルケゴールと共に虚無主義者と呼ばれる。然し、私は彼等を虚無主義と呼ぶのは誤っていると考えている。原本を読まれれば直ちに判ることであるから此処には書かない。ニーチェであれば「ツアラツウストラはこう語った」あたりが分かり易いと思う。
人間は妄執に取りまかれている。今日の妄執の第一は偏差値であろう。諸君らの憎き偏差値は、君らの能力を示していない。例えば、岩波新書「天才」宮城音濔先生著を読まれたい。他にも類書は数多くある。
君らの周辺に信ずべきものがあるのか。次から次へとニーチェは粉砕してしまう。もうやめてくれと云ってしまう程、何でも打ち壊す。考える葦はつよい。何でも突き破る。これがニーチェの著曙光である。然し、或る日、遂に壊れないものを見出す。そしてツアラツウストラ、つまり、君は、意気揚々と山を降りて里に向う。その君を照らすのが曙光である。
若い君の力を輝かすように太陽はやさしい美しい光を君に注ぐのだ。
諸君、壊れるものをすべて壊し、本当に壊れないものを君の心の中に把め、それも、すぐ壊れてしまう。それが壊れたらすぐまた、本当に壊れないものを夢中になって把め、そして、本当に曙光を浴びる強い、あるいは、たをやかなる若人になれ。
(命名及び表紙題字)第17代東北大学総長 西 澤 潤 一
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