◇「教養教育」の現在 | ||
教育学研究科教授 荒井 克弘 | ||
大学教育研究センターから「教養教育の重要性」について書けとのご依頼をいただいた。高等教育を生業とするものの、赴任にして間もなくのことで、不躾ながら本学での教養教育の実態、議論の経過を知らない。さりとて「教養教育」論をぶつほどの教養は筆者にはない。周知のとおり、今年5月には中央教育審議会へ「新しい時代の教養教育の在り方について」の諮問があった。世間の眼はすでに教養部廃止後の「教養教育」に集まっている。以下、大学設置基準の大綱化の意義を再考し、また最近の学生たちのようすを若干ご紹介することで何とか責めを果たしたい。 一般教育から学士課程教育ヘ 平成3年(1991)7月に大学設置基準の改正が施行されて、学部の前期教育はさま変わりすることになった。いわゆる「大綱化」である。一般教育科目、専門教育科目といった科目区分が廃止され、卒業要件となる履修単位数の規定も解消された。大学の一般教育は戦後の新制大学発足の際に導入され、その理念は当時から高く評価されたものの、旧制大学、高等諸学校の合併によってスタートした新制国立大学では、一般教育はどこでも常に実施上の困難を抱える問題であった。昭和38年に32の国立大学に教養部が設置されたのは、担当教員組織を明確にすることが一般教育の改善に資すると考えられたからである。だが、それもまた新たな火種を提供することになった。 一般教育、教養教育をめぐる角逐は理念の問題としてではなく、つねに実施上、組織制度上の問題として生じてきた。したがって、今回の「大綱化」の措置も一部には一般教育の否定かと受け取られる向きもあった。が、専門家のおおかたの理解は、新制大学発足期の「原点」にもどって再考するのだ、そう解釈したい(黒羽亮一)というものであった。事実、大綱化の直前(平成3年2月)に提出された大学審議会答申には、「一般教育の概念・目標は、大学の教育が専門的な知識の修得だけにとどまることのないよう、学生に学問を通し、広い知識を身に付けさせるとともに、ものを見る目や自主的・総合的に考える力を養うことにあり、入学してくる学生や諸科学の発展の現状からみて、このような理念・目標を実現することが一層必要になっている」とあり、その理念は新制大学発足からいささかの後退もない。 また、設置基準の改正は大綱化の面ばかりが強調されているが、改正前にはなかった教育課程の概念、編成方針の導入にこそ注目するべきだという指摘(館昭)もある。新しい第19条の教育課程の編成方針では「教育上の目的を達成するために必要な授業科目を開設し、体系的に教育課程を編成する」、2として「教育課程編成にあたっては、大学は、学部等の専攻に係る専門の学芸を教授するとともに、幅広く深い教養及び総合的な判断力を培い、豊かな人間性を涵養するよう適切に配慮しなければならない」とある。つまり、授業科目区分の撤廃はあくまで「体系的な教育課程の編成」を促すためという解釈である。 教養教育に求められる変化への感応性 いずれにしても、琉球大学を含め33になった国立大学の教養部のうち32が「大綱化」から1998年までに廃止された。科目区分が撤廃された以上、責任組織の廃止はやむをえないが、その是非を論ずることはむずかしい。ただ、多くの国立大学にあってはこの決定がその後の大学改革の手がかりを与え、学部や大学院の整備拡充もそれによって可能になったところが少なくない。教養部廃止後の教養教育のむずかしさは、実施体制の確立もさることながら、教育課程の前提条件が年々かわっていくことであろう。例えば、今日、学生の多様化は著しい。少子化にともなう受験競争の緩和のなかで、大学入試の役割はかわり、選抜から相互選択への転換もはじまっている。もちろん、難関といわれる大学、学部を含めて一挙に体制がかわるとは考えにくいが、高校教育の多様化も入試の多元化も進んでおり、その影響を免れることはできない。 数年前に、学生の授業理解度の調査を整理していて、国公立、私立を含めた20余の大学のどこでもかならず1割ほど「授業がまったくわからない」と回答する学生たちのいることに気が付いた。いわゆる大学ランクには関係がない。別の調査で、困難科目を抱える学生たちが該当数をこえるほど多いことも確認できた。入学年次の「困難科目」を尋ねた調査では、彼らが苦手とする科目が大学をこえて共通性の高いこともわかった。困難科目についてはどうやら2つの法則がある。第1は、自分の専攻に関係しない科目はいかに授業が難解であっても「困難科目」には数えないという法則である。専門外の教養科目は眼中にはない。要は単位取得までの我慢と割り切っている。第2は体系的な理論や学習の積み重ねを前提とするような科目には存外弱い。厳格にいえば、すべての学問的知識がこれに該当してしまうが、教養科目の範囲でいえば、理系では数学や物理(特に電気・電子の回路理論)、文系では経済学や憲法、心理学が多くあがっていた。こういう科目はサボるとついていけないためかと思ったが、困難学生たちの出席率はけっして低くはない。 学士課程教育の系統性といっても、基礎科目と専門科目だけに偏っていては意味がない、学生たちに広い視野をもたせ、柔軟な思考を蘇らせる、そして我慢強く学習を積み重ねる重要さも知ってもらわなくてはならない。そのためには教養教育の意義をいくら強調してもしすぎることはないであろう。要は、教養教育という以上に教養教育への入り口、導入教育に期待されるところが大きい。元来は補正教育(リメディアル教育)ともいうべき役割である。リメディアル教育というと、即補習教育と誤解されるおそれがあるが、高校科目の補習に短絡させて考えるのは誤りであろう。高校科目の補習がリメディアル教育として有効かどうかはだいぶ怪しい。学生たちをもう一度受験学習に戻してしまうことになりかねないからである。重要なことは、大学教育への招待である。大学での学習とは何か、それを実感してもらう必要がある。そのためには大学をとりまく環境の変化、学生たちの変化にも敏感でなくてはならない。大綱化から10年近くが経過し国立大学の教養部廃止もほぼ完了した。新体制の教養教育の按配がどうであるか、いよいよ評価の時代に入ろうとしている。中教審ではつぎなる目標の模索もはじまった。教養教育の新体制が問われるのはこれからである。 引用・参考資料 1.筑波大学大学研究センター『大学研究』第8号,1991 2.広島大学大学教育研究センター『大学のリメディアル教育』研究叢書第42号,1996 |
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