◇若い諸君に ―「みる」ということでの雑感―
東北大学留学生センター長  田口 喜雄
 「子供は大人の父である」タイのチャオプラヤ河畔で大きな虹をみたとき、ワーズワースの「ザ・レインボー」が口から出た。その直後、医学部の卒業謝恩会の席で「虹は何色か」と問うた。ほぼ全員が「七色」と応えた。色盲、色弱でないものには「五色」とも言えるし、波長分析をすれば400から800ナノメートルまでの可視スペクトルがあると発言したのだが………近親結婚故かサルデニア島では、中世さながらの白と黒の世界があった。信号機の赤は他と比べて大きく作ってあった。

 「獅膽鷹眼鬼手佛心」という色紙が、ある病院の手術場に掲げてある。肺移植を成功させた本学呼吸器外科の先達・鈴木千賀志教授の筆。一方、婦人科の九嶋勝司教授は「鵜や鷹ではあんめえ、もっと近くでヨクみろ」と言われた。作家の司馬遼太郎氏はビルの屋上から行く人々を眺める視点を大事にしながら、散歩の途次みどり夫人とコーヒー店で、あれこれ路行く人の品定めをするのが愉しみであったという。

 「目明きとは不便なものだ」と嘆じた塙保己一の話は別として「見る」ことは重要である。「見える」となるとさらに大事で、これは人間に備わった能力の際たるものの一つである気がする。動物学的には見える色の範囲も違うようであるが、視点の高さからだけで言うと「鳥の眼で観る」こと、すなわち「俯瞰する」ことと、「虫の眼で視る」こと、すなわち「凝視する」ことと、「人の眼で見る」こと、すなわち「認識する」こととが重要ではないか。それも「色眼鏡」でなく「裸眼」でみることが。加えて「医者の眼で診る」「看護者の眼で看る」ことも必要としたが、この齢になると「患者の眼でみる」ことも要求するようになっている。

 レーザーで口径1ミリ2ミリの血管を接合ぐことに成功した夜は興奮した。直ぐ発表しようと文献を調べたら、すでに先人の論文があった。後からのことだが、桂重次先生は食道癌の手術中、大動脈からの出血に際して「電気メス」と言われた由。熔接の原理で、血管成分のコラーゲンをハンダの糊としようと考えたのであろう。同様の発想をレーザーを使用して顕微鏡下に行なった。そのとき「見える」から「手が動く」ことを実感した。それにしても「米粒に字を書く」中国人の技術は「眼の機能」が違っていたのだろうか。われわれの眼は退化したのだろうか。細かい細工のほどこされた展示を観ながら、愕然とした台北の故宮博物館。ヒトという素晴らしい生き物がいるという感銘がよぎった。

 眼鏡、望遠鏡、顕微鏡に始まる「見るため」の補助手段は格段の進歩をとげた。それもX線や音波など通常の視座外の波長や偏光までもを可能にし、原子や分子の世界を覗けるだけでなく、その配列の乱れまでをも制御できるようにしてきた。研究が微に入り細に入り、分析は詳細を極めている。「群盲象を撫でる」類いの現象も出てきて、ガリバーの小人国の国王の体験、すなわち専門家の視点での報告では、埒があかず、王自らの出馬を必要とした文学社会の先見性という想いも走る。

 「私が常日頃から思っていることなのですが、家鶏のことを調べるからといって、家鶏ばかりみていても駄目なのですね。その周辺がわかってこないと、全体がみえてきません。たとえば、植物は家鶏に深く関係してきますし、他の動物も関係します。さらに民族の信仰、習俗、服飾や音楽などにも目配りしなければなりません。点でみていくと、なかなか全体がみえてこないのですが、全体をざっと広げて面でみるとかくれていた要素がみえてくるのではないかと思います」最近手にした本、秋篠宮文仁編著『鶏と人』の結論的な言である。後年『三四郎』の広田先生をして「日本は滅びるね」と言わしめた夏目漱石が「日本人の眼はより大ならざるべからず」といみじくもロンドンの下宿での書き付けと一般であると解釈したい。

 医学の文献雑誌インデックス・メデイックスが、学生時代10年分を製本して2キロだった。今や1トンの時代。ケミカル・アブストラクト通称ケミアブという化学のそれは、当時から医学以上と言われていた。コンピューター時代の医学の項目事項は年間10万件を越したという。寝ないで眺めるだけでも5分間で1項目の時代。知識の鵜呑みは、それが血となり肉となる前段階での消化不良をひき起こしかねない。強靭な知力形成には齟嚼と燕下そして消化。加えて快便。

 大学は「虫媒花」のように「甘い蜜」を生産し、蜜に呼び込む「花の構造や色調」を「伝統」と語り続ぐことで存在しえた。「お題目」を唱えていれば良い時代があった。ところが、いわゆる・IT現象なる「風媒花」が大学の内外に種子を蒔き散らしだした。また、そこに巣をくう「霊媒体」との相克あるいは超克も課題となってきた。これはこれで、新しい大学の創造にも繋がることであろう。「知る権利」などと嘯いていられる時代ではなくなる。情報を提供しているのに「知らない」なんて「知る義務」を果たしていないと。現に、われわれの常識では考えられない多くの決まり事の氾濫する世の中。文明は「コンピューターを使えないものは、その脱落者」と決め付ける。文明自体の自己撞着の波浪は荒れこそすれ、凪はない。

 砂漠の民に代表されるイスラム系の国旗は「三日月と星」に代表される。バイキングを始め未知の国に航海をした民は、陽の光も必要としたろうが月と星は「風」とともに大事な路標であった。万人共通の文明だけでなく、人それぞれの違い・文化度という温度差は「多様」を認識し「共生」という羅針盤を必要とする。その際、面舵をとるか取舵一杯とするか、判断の決定をリーダーは下さなければならない。「私」と「公」との葛藤を倭小化する風土は、ヒトを含めて生物体の生存の基本でもある。ヒトが人間として、希望を未来に託せる存在であり続けた基本は、即物的ではなかったことであろう。それがため「視座」に立脚した「見きり」の行動が求められる。

 下宿の押し入れを改造して、一畳の書斎として語学や古典に耽溺していた頃、目標は「岩波文庫を背の高さ読む」ことであった。乱読と精読。アミエルに沈潜した夜と朝のゲーテと希望。「大学は君たちを百科事典にするところではないヨ」と言われた西洋史の山脇重雄教授の日露戦争の浄書や民主主義の歴史の下調べやら筆耕を。解剖学の浦良治教授にはエスペラントの理念と比較解剖学的な「ものの見方」を。法医学の村上次男教授からは「若い時の精一杯」と「信用」ということで、新聞発行を手掛けた以上は発刊日をきちんと守るよう。外科の武藤完雄教授の口癖は「後生畏るべし」、現実・未来をいろいろ示唆された。恩師の話は尽きることがない。

 大学という「人を育成する機関」には、栄養素のほかに「良い水」と「光」が存在し続けて欲しい。「学の風」とでも言おうか。それは、願いであり「種子」や「苗」がいずれ開花して大きな稔りとなる期待でもある。教師は「光」として存在して欲しい。諸君のアクセプターは「光」という粒子を無限に受けとめることができるからだ。教師の慈愛ある眼差しは、たとえ厳しいと感じても「光の発振源」であると信じている。古典といわれるものも人類全体の太陽「光」と感じている。

 「光」と違い「知識という情報粒子」は、限られた空間でしか収容できない。半可通であるが、学んでのち「無」になり。「空」になることを「悟り」と。それは「光明」でもあると仏像は「光背」で象徴している。情報の氾濫に対処するため、知識の消化不良になって偽りの悟りである「魔境」を彷徨わないで欲しいと願う。よしや「魔境」免疫の獲得を。リアリズムでモノをみることに努めてきたものの言として、物を摂取するには「排世」「発散」が大事と。生体には栄養動脈があり、それに随伴した2本以上の排出静脈がある。基礎体力をつけ、鍛練に励む若き日々はとくに新陳代謝が激しい。汗が「光」となり、輝く日は必ず訪れよう。

 自身の研究生活は、手探りの臓器移植の研究から始まり、その臨床応用さらには医療としての定着へと進んだ。そのため、多くの先輩・同僚・後輩のお世話になった。とくに市井の人々の「ものの見方」には、学ぶところが多かった。いま、外国人学生からも教えられることの多いのを感じている。まさに「目から鱗」である。「ものの見方」は個人のアイデンテイの古里の表現であり、光彩を放つ。

 恩師・葛西森夫教授は「素心」と色紙に書かれるのが常であった。その心を「貧しきものは幸いなり」という聖書の言葉が好きだとだけ言われた。新鮮で、自由・濶達こそが学生である。勤勉なる・充実した日々を送られ、友情の旺んなることを祈念して筆を擱く。

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