◇入学した皆さんに勉強して欲しいこと
前理学研究科教授  荻野 博
 皆さんご入学おめでとう。私は皆さんとちょうど入れ代わりに卒業(停年退官)するので、入学してきた皆さんが私の生まれ変わりであると勝手に考えることにし、大いに勉強して欲しいと思っている。

 日本ではこの人は文系、あの人は理系と峻別しすぎていると思う。大学に入って文系の学部に進む人は理系の授業はあまリ一生懸命受けなくてもよい、あるいは感覚的な理解で良いかのように言う風潮がある。逆に理系の学部に入った人は、文系の授業は卒業要件を満たす単位取得だけが目的であるかのような受け止め方をする人がいる。いずれも大きな間違いである。教える側にも問題がなくはない。「文系のための化学」といったようなタイトルの教科書があり、数式は一つも使わないことをうたい文句にしていたりする。このようなタイトルの本がすべて問題であるというつもりはないが、化学に限らず数式は科学を理解し、発展させてきた最も重要な手段であるから、数式のない教科書では科学の真髄に触れたことにも、それを勉強したことにもならない。文系の人に科学を専門とする人のレベルまでの高度なことを教えるべきだといっているのではない。科学の本当の姿を教えるのに最低限必要なら数式も使うべきであり、また学生もそのように勉強すべきである。科学の分野はあまりにも広い。理系の人間だって科学のごく一部しか勉強できない。したがって、文系の人がたくさんの理系の授業を受ける必要はない。理系の基本的な一、二の分野の勉強をして欲しいのである。そのようにして体得したことを自然科学全体に敷衍して考えてもそう大きな間違いはないであろう。何一つ本物の理解がないまま科学を感覚的に捉えて欲しくはないのである。

 私は無機化学を専門としている。したがって、無機化学関係の事柄についてしばしば外部から問い合わせがくる。ある時有名写真週刊誌から電話取材を受けたことがある。某大学でポットに硝酸タリウムを入れて他人を殺そうとした事件に関するもので、取材の内容は硝酸タリウムの毒性についてであった。私は知っていることを説明し始めたが、途中でどうも相手が硝酸タリウムと金属のタリウムの区別がついていないように感じられた。私は試みに「塩化ナトリウムと金属のナトリウムは違いますよね」と言ってみた。相手は「どう違うんですか?」と言ったので、私はそもそもと言って講義をする羽目に陥った。

 もう一つ紹介しておこう。ある新聞記者から東北大学理学部の研究で何か面白いトピックスはありませんかと聞かれたので、理学部自慢の話をいくつか紹介した。その一つとして理学部の泡箱写真解析施設の組織を組みかえて、ニュートリノ科学研究センターが発足したことを説明した。以前ニュートリノが専門の物理の先生と一緒に文部省と交渉し、それが実ってセンターの設置が実現したのである。その過程で私もニュートリノについて少々勉強した。かくして、私は「門前の小僧習わぬ経を読み」よろしく、宇宙線にはニュートリノが含まれていること、ニュートリノの運動を妨げるものはほとんどなく宇宙のかなたからやってきて地球の反対側へ突き抜けられること、これを研究すると宇宙の起源が分かること、もしニュートリノに質量があれば物理学は書き換えねばならないそうですなどと説明をした。相手は私の話の途中で突然「エーッ?ウチュウセンて船ではないんですかあー?」と言った。その記者は私の話を最初から宇宙船の話だと思い込んで聞いていたのである。

 ジャーナリストといえば文系の多くの人がなってみたい職業の一つではないだろうか。何一つ科学の真髄に触れたことのないジャーナリストがいるとしたら、そのような人に我が国の科学技術行政や原子力政策を論じて欲しくはないし、そんなことでは国の将来を誤ることになる。

 アメリカの大抵の大学では、文系の学生が化学を選択しても、少なくとも一般化学については文系・理系の区別はない。通常この授業は学生実験(コンピュータシミュレーションを含む)とセットになっており、講義と合わせて1セメスターのかなりの時間が割り当てられる。正に本物の化学が教え込まれるのである。私が留学したことのあるイリノイ大学では、このような授業と実験はすべて化学教室で行われ、文系・理系合わせて毎年約5800人の学生が履修している。日本は現状のままで良いのであろうか。

 そもそも近代的な学生実験室を創設し、化学教育を始めたのはドイツのリービッヒ(1803―1873)であった。この化学教育に革命をもたらした方法はほとんど姿を変えずに連綿として現代に続いている。化学を含め科学は実験という手段を使って原理や法則を確かめ発展してきた。したがって、実験とはどういうものかを正しく認識しなければ、科学を理解したことにはならない。自転車の乗り方をいくら授業で聞いても乗れるようにはならない。乗れるようになるには、広いところに自転車を持ち出して乗る試みを繰り返してみるしかない。実験にも自転車に乗れるようになることと相通じるものがあり、授業とは相補的な関係にある。私は大学に入るまで沈殿とは液体の底に細かい固体が沈んだものだと思っていた。もちろん、この固体は沈殿であるが、実際に沈殿をつくってみると、液体の上に浮いてくる沈殿や、液体の中全体に固体が糸のような状態になって充満する場合も観察され、沈殿とは文字面と異なり沈んでいるとは限らないことを知るのである。教科書にはこんなことは書いてない。

 現代の生活は化学や科学技術がつくり出したもので支えられている。我々が日常使う衣類、文房具、スポーツ用品、住宅、パソコン、自動車などすべてがそうである。これだけ高度の科学的成果がつくり出した社会で生活していて、科学をあまり知らないでは済まされないではないか。

 ところで、理系の学生にとっての文系の授業はどうあるべきなのであろうか。私自身日本の理系人間として教育を受けてきた一人であるから、大いなる問題人間に違いない。学部4年の卒業研究の開始が研究の出発点とすれば、私は42年間も研究を続けてきたことになる。この間一生懸命化学の研究に打ち込んできた。しかし、いくら化学に時間を割いても、人間如何に生くべきかを学ぶことも考えることもできない。自分で意識して勉強しない限り、社会の仕組みも、法律のことも何一つ触れないで済んでしまう。文系の人から見たら「よくあれで生きているものだ。危なっかしくて見ちゃおれんよ」というところかもしれない。特にこれからの理系人間はこれでは困るのではないだろうか。文系の人に一、二のしっかりした理系の授業を受けることを要求するのに対応して、理系の学生にも文系の本物の授業を一、二の科目についてしっかり受講してもらうことがきわめて大切である。

 生命科学の研究は倫理の問題を避けて通れないし、人間の活動は地球環境と直接関係しているといった具合で自分の専門の枠内に閉じこもってはおれない問題がたくさん生じている。環境問題はその典型的な例であり、文系と理系の人間に強固な橋渡し組織をつくらないと解決できない。化学工業においても最近グリーンケミストリー(地球にやさしい持続可能な化学)ヘの真剣な取り組みが始まっている。できるだけ目的の物質のみを合成する高効率の反応経路、エネルギー消費の少ない生産方法、溶媒を使わない製造工程、などといったものの探索である。地球規模で起こっている問題と自分の専門との関わり合いを見つめる目をもたなければグリーンケミストリーは推進できない。マルチ人間なんてそうはいないが、少なくとも二面から見ることのできる人間は必要である。次の世代の優れた人材を育てることが大学の最も重要な使命である。様々述べたが、私が言いたいのは、社会や世界の動向に目を向け、幅広い教養を身につけて欲しいということである。多くの新入生の皆さんがこのような意識を持ってこれからの学生生活を送られるよう期待したい。

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