◇出会いの場
前東北アジア研究センター教授  徳田 昌則
 新入生の諸君、入学おめでとう。

 諸君は、21世紀という大海原に向かって、これから船をこぎ出そうとしているところです。私は、その船を丁度降りたところです。そこで、岸に立って、手を振りながら、諸君にボン・ボヤージュと、はなむけの言葉を贈りたいと思います。


 大学は出会いの場であるとよく言われます。毎年、何千人という若者が、全国から、そして最近では世界から、集まってきて、数年を過ごし、世界へ散らばって行きます。人生を生きて行くための基礎を作る場と云うことで、専門教育を受けることになっていますが、それだけではないのです。そこでは、知の営みの様々な分野で、経験と研鑽を積んだ様々な年齢層の先輩と接し、多くの生涯の友人を作り、中には伴侶まで見つける人も居ます。一生手にすることになる愛読書を見つけ、終生つき合うことになる趣味の手ほどきを得るチャンスもあります。そういう様々なものや人や事件に出会い、それらを成長の糧にしてしまえるのは、若者の特権であり、それをやれる場が大学というわけです。

 私の話をします。田舎の学校から、ぼそっと都会に出てきた私にとって、見るもの、聞くものが驚きでした。おくて、だった私は、武者小路の「友情」、漱石の「こころ」、ヘッセの「車輪の下」などから始まって、「チボー家の人々」、「ジャンクリストフ」など、当時の若者の必読書を、今にして思えば、何とか、友人達のレベルに追いつくべく、読みあさりました。「アンナ・カレーニナ」や「カラマーゾフの兄弟」の一節、あるいは、クロード・モルガンの「人間のしるし」は、今でも、時に読み返して、心を熱くします。高校時代、クラシック音楽など聴いたことがなかったのですが、大学で、モーツアルトに出会い、一頃は、レコードをケッヘル一番から集めることに熱中したりしました。とある日、ジェラールフィリップがモジリアニに扮する「モンパルナスの灯」という映画を名画座で見て、感激し、その夜は、バスに乗る気がしなくて、てくてく歩いて、深夜に下宿に帰りつきました。以来、モジリアニの絵は私の大学時代へ戻る切符のようなものになり、パリやモスクワの美術館などでも、突然出くわして、あの日の感動を思い出す機会を与えてくれます。囲碁は、高校時代に覚えましたが、大学で飛躍したと思います。部活は剣道部に入ったのですが、3年で、実験が忙しくなってから、稽古に遠のき、自然退部してしまったことが今でも悔やまれます。しかし、剣道部時代に切磋琢磨した、囲碁だけは、今でも唯一の趣味として残っています。

 学問のお話もしましょう。大学に入学した最初の年は、上に書いたように、見るもの聞くもの新鮮で、夢中で本を読み、話を聞き、遊び回っていたおかげで、期末試験の成績は、特に、数学と物理についてはさんざんでした。そこで2年目には、真剣にやることにしました。相手は、微分方程式と熱力学で、真剣にやると結構面白く、試験でもかなりの点を獲得する事が出来ました。その後はまた、低空飛行に戻ってしまいましたが、一生懸命やれば何でも面白くなり、成果も出るという自信を得たことが大きな収穫でした。面白がって、集中できるようになれば、今風に云えば、「結果がついてくる」と云うことなのでしょう。熱力学(Thermodynamics)とは、結局生涯つき合うことになりました。この学問は、その名前からもうかがえるように、石炭を燃やして熱を発生させ、蒸気を作って、動力を引き出すという産業革命時代の最も基本的なプロセスの解明の中から生まれ、育てられた学問で、機械、化学、材料などの分野では、直接、各々の基礎となっています。その生い立ちと、応用分野からは、極めて実用的な雰囲気を漂わせていますが、つき合えばつき合うほど、ますます、その間口の広さと奥行きの深さを感じさせます。例えば、熱力学の第一法則は、エネルギー保存則と呼ばれます。「無から有は生まれない」と、云えば、世間一般の常識の科学的基礎にもなっています。さらに、アインシュタインの物質とエネルギーの変換公式を介して、この法則は原子核反応から宇宙規模にまで広がりを持っています。第二法則の表現法は、様々で、そのことが、熱力学を分かりにくくする反面、一度、はまると離れられない魅力にもなります。熱は高温部から低温部に流れるとか、自然は真空を嫌うとか、覆水盆に返らず等は、すべてこの第二法則の内容を表現するもので、端的に言えば、事象の変化の方向を示すと言えます。そこで用いられる基本的な概念はエントロピーと呼ばれ、エネルギー利用や環境技術開発には、この概念にしっかり裏打ちされた基盤が必要だと思います。情報学におけるネゲントロピーというものもこれから派生した概念ですし、経済学にもこの概念を基礎にした理論があるようです。私は、その後、専門課程で学んだ反応速度論と共に、この熱力学に出会ったことを感謝しています。もう一つ、私が感謝している出会いは、弁証法と呼ばれる学問です。哲学の講義で目から鱗が落ち、世界を見る目が大きく拡大した感激を覚えました。「万物は流転する」という言葉を、熱力学的観点と弁証法的観点から理解する機会が得られたことは、本当に幸せだったと思います。そして、忘れてならないのは、そういう契機を与えてくれた、先生方や先輩そして書物、そして何よりも、こういう概念やものの見方を、酒を飲みながら、麻雀をあるいは、ハイキングしながら、議論を通して切産琢磨してくれた仲間達に感謝したいと思います。最近は、熱力学やエントロピーに関する優れた解説書もいろいろ出版されています。是非、若い柔軟な思考に、この学問を取り込んで欲しいと思います。

 もう一つ、語学、と言うよりは言語のことをお話ししたいと思います。21世紀は、国際感覚を、ますます豊にする必要があります。一生、外国に出ない自信のある人でも、というより、そういう人達にはとりわけ、国際感覚を意識的に養って貰わないと、日本は、独りよがりのアジアの孤島の地位に追いやられるのではないかと懸念します。ましてや、これから国際社会で活動する機会の多いことが分かっている本学に学ぶ学生諸君の場合は、在学時に、少なくとも三カ国語を、何とかマスターして欲しいと思います。まずは、日本語ですね。この言語は、科学技術の分野では、世界的にもかなり有用ですし、それが支えるユニークな文化は、21世紀の人類にとり、貴重なものとして、生き続けるでしょう。幸い、諸君の大部分は、これを母国語としているわけですから、それを大いに磨いて人類文化に貢献して下さい。その次は、やはり、英語でしょう。最も普遍的な国際言語であることは間違いありません。しかし、諸君が、今後地球規模で活動しようとするとき、英語では全く役に立たない場合が、頻発するでしょう。そのために、二番目の言語があれば、活動の場は更に広がりますし、自分でなければ出来ないと云う機会も増えるでしょう。機械翻訳技術のおかげで、外国語の習得など不要という意見がありますが、言語の習得は、もっと深くて厚みのある交流を可能にすると信じています。私の場合は、出身地の琉球の言葉も入れて、4カ国語といいたいところです。第二外国語はドイツ語でしたが、結局は、第三外国語として、土曜日の午後に趣味で取っていたロシア語が、残りました。ロシア語を取ったのは、世界最初の人工衛星をソ連が飛ばし、それに触発されて世界中で高まったロシア語熱に乗ったものですが、振り返ると、私の人生の節目ごとに、ロシア語が絡んでいたようにも思えます。全学教育の時代に、ロシア語との出会いがなかったら、大学生活を、このように東北アジア研究センターで締めくくることにはならなかったかもしれません。出会いの妙という気がします。

 とまれ、諸君は、いまや、東北大学の学生です。そのことは、諸君はエリートだということです。諸君自身がなんと思おうと、それは動かし難い事実であり、そのことを少なくとも認識して欲しいと思います。何故そうか。諸君は、自分と全く同じ誕生日の仲間が、この大学とこの地球上に、各々何人ぐらい居ると思いますか。確率的に云って、本学では、2〜4人程でしょうか。それに対し、地球上であれば、生まれた直後は、おそらく、27万人ぐらい居たはずです。20年近く経った今は、22万人はどに減っているかもしれませんが、それでも、大変な数です。その中で、ほんの数人が、東北大学で学べるのです。これは、それだけで、エリートといわざるを得ない。勿論、その中には、北大とか、東大とか、山形大とかハーバード大とか、ロンドン大学で、学ぶ人達も居ます。それらをひっくるめても、2〜3万人というところでしょう。大部分の仲間は、パソコンをいじったり、自動車を乗り回したりすることとは無縁でしょう。その日の食糧の確保に必死という仲間も相当数にのぼる可能性があります。あえて、諸君をエリート呼ばわりしたのは、このことを認識して欲しかったからです。この人生の可能性が一杯詰まっている学生時代、体を鍛え、心を鍛え、大いに青春を楽しむ事に、まず声援を送ります。その上で、時に、何かの折りに、22万人の仲間の存在を思い出し、ほのかな連帯の意識をも育てて欲しいと思うのです。諸君のご健闘を祈ります。

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