◇教養について
東京経済大学現代法学部教授(昭和33年3月法学部卒)  守屋 克彦
 大学教育研究センターから「曙光」に対する寄稿を依頼され、母校にお役に立つならと気安く引き受けましたが、送られてきた執筆内容は、「生涯教育の一環としての教養教育の意義と重要性について」といういささか重々しいものでした。難しい内容に少し驚いて、あらためて教養というテーマについて考えることになりました。

 にわか勉強で付け焼き刃の知識をひけらかすことは、それ自体すでに教養に反することになりそうですが、1958年に法学部を卒業して、1961年から1999年まで裁判官を勤め、定年退職後、2000年から現在の大学で学生の人々と付き合うようになった経験を振り返って、少し感じていることを書いてみることにしようと思います。

 有名な白川静博士の「字通」やその他の漢和辞典によると、教養という言葉は、中国古来は「教えみちびく」という内容であったようですが、日本語としては、「学問・知識をしっかり身につけることによって養われる心の豊かさ」(岩波国語事典)という意味で、一般に使われていると思われます。

 この意味の教養は、他人からは感じ取ることができ、人を尊敬する理由にはなりますが、自分としてどうすればそれを獲得できるか、あるいはどの程度到達したのかということなどを感じ取ったり、表現したりすることが難しいという点がやっかいなことです。自分から教養があると自負するような人は、その時点で、すでに教養がないことを暴露するようなものと言えるでしょう。

 こう考えると、教養は、それを身につけたいと願う人にとっては、到達したいという願いにもかかわらず、到達点を極めることが永遠に不可能であるような、不全感や焦燥感を伴う言葉であるようにすら感じます。

 私にもそのような不全感を強く抱いた時代があったことが思い出されます。

 私は、1934年生まれですから、太平洋戦争中に初等教育を受け、戦後の改革に伴って、中学以降の新制教育つまり現在の学制による教育を受けた世代に属します。終戦直後の教育制度の混乱のために、中学時代に十分な基礎教育を受けられなかったという引け目を持っていた私たちは、旧制の中学校や高等学校で学んだ先輩たちが、私たちと数年しか年の隔たりがないのにもかかわらず、教養を備えた雰囲気を醸し出していることを見て、羨望に似た感情で眺めていました。私が専攻した法律学の分野でも、旧制教育を受けた人々は、総じてドイツ語などの語学に明るく、哲学や文学の領域の知識もそれなりにあって、それこそ心の豊かさを感じさせる人々が少なくありませんでした。

 私が、裁判官になって初めて赴任した裁判所で、宿合が隣り合わせになった先輩の裁判官は、私と10歳違う旧制高校の出身者でしたが、法律ばかりでなく文学や諸般の思想に通暁し、岩波書店が出版する主な図書はほとんど目を通し、自在に議論をするという人でした。私としてもそれまで読書をしなかったわけではなく、角帽と詰め襟の学生服のスタイルで、マルクスの「資本論」を通読したかどうかとか、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」や「魅せられたる魂」、マルタン・デュガールの「チボー家の人々」など当時の若い人の心をとらえていた小説の主人公たちの生き方をどう思うかとか、三神峯の芝生で友人たちと熱っぽく議論をしたことが、青春の息吹を伴う経験として残っているのですが、先輩と話をしていると、自分が何か底の浅い知識を振り回しているに過ぎないようなほろ苦い感じがしたことが思い出されてきます。

 今日の若い世代の人々は、教養の問題をどう考えているのでしょうか。

 現代は情報社会といわれます。書店に溢れている雑誌や新刊書の量はもとより、新聞、テレビなどのメデイア、あるいはインターネットによる無数の情報が私たちを取り巻き、パソコン、ファックス、携帯電話などによって、瞬時にして流れ、拡がって行きます。情報の量と拡がる速度は、私たちが学んだ時代とは比較になりません。私の主な関心領域である少年非行や少年法の問題を取り上げてみても、ひとたび重大な事件が発生したりすると、あっという間に、さまざまな報道・評論・解説が入り乱れ、しかも伝達や拡がりのテンポが早いために、「問題点をじっくり考えなければ」などといっていると、なにか時代に取り残されるような焦燥感を感じることにすらなります。

 問題は、このような情報の波が、大人にも子どもにも、教える側にも教えられる側にも、無差別に、際限なく押し寄せているということです。情報社会に「古き良き時代」があったとすれば、大人が子どもよりも豊富な情報を持っているために子どもから尊敬され、研究者が、学生に対して専門的な情報と共にそれを整理する方法を伝授することによって、学問の権威を保持することができた時代といえるのかもしれません。しかし、現代は、大人も子どもも、研究者も学生も、無差別な情報の氾濫にさらされるままです。むしろ若い人々の方が、時代に対する適応が早いために、受ける情報の量が豊富だとさえいえるかもしれません。学問や研究の領域でも、情報の増加に伴って専門分化が著しく、研究者が学生の要求に応じて適切な情報を提供したり、整理の手段を伝えたりすることで学問の権威を保持することにも努力が必要だという印象を受けることになります。

 このような情報の量や拡がりの前で、ともすれば既製の教養は光を失いがちです。現代の人々は、氾濫する情報を整理し、統御する座標軸としての現代的な教養が必要であることを肌身に感じながらも、整理の対象であるはずの情報の渦に流されるまま、その修得の方法を見失いがちになっているのではないでしょうか。

 しかし、教養を積むための即効的な処方箋があるわけではありません。

 ここでは、一つの例として、私が、先に紹介した先輩の裁判官との対話の中で、自分の考えを深めるために優れた小説を読むということと、自分の思想に責任を持つことの重要性を学んだことを紹介するにとどめたいと思います。人生経験の少ない若い人にとって、いろいろな人間の生活に対する真塾で優れた観察を読むことが、かけがいのない精神的な栄養をもたらすということです。また、後者は、たとえば、戦争中には戦争を賛美していながら、戦後は一転して進歩的な言論を用いるようになった人々のように、軽々しく時流に乗って言説を変える生き方を潔しとしないと思えるほどに、常に自分の考え方にこだわりと責任を持って築き上げて欲しいということです。

 先輩とこのような話をした時から30年以上も過ぎ、先輩もすでに亡くなりましたが、私は、今でも、小説やノン・フィクションなど、人の生き方に触れた優れた作品を読むことを楽しみにする生活を続けています。教養は、遅々たるようでもどかしくとも、読書を重ねながら、自分で思索を重ねて行くほかに、それを得る近道はないと思うからです。

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