◇ある視点:研究中心大学における全学教育の在り方
副総長(学務担当)  三谷 英夫
 平成10年12月に小中学校の学習指導要領が改訂され、平成14年4月より施行される小中学校の教科内容が3割削減されることになった。また 平成11年3月に高等学校学習指導要領が全面的に改訂され、卒業に必要な必履修教科・科目の最低合計単位数を、普通科では38単位から31単位に削減した。これによっ て日数にしておよそ40日分の授業が削減されることになり、平成15年4月より年次進行により段階的に適用されることになっている。これらの改訂は、完全学校五日制 への移行によって授業時間が減少することに加え、多くの知識を教え込むことになりがちであった従来の教育の基調を転換し、各学校が「ゆとり」の中で「特色ある教 育」を展開し、豊かな人間性や基礎・基本を身に付けさせ、個性を生かし、自ら学び考える力などの「生きる力」を培うことを基本的な狙いとしている。そのため「総 合的な学習時間」を創設するとともに、各教科・科目において、体験的、問題解決的な学習の充実を図ることとしている。このような方針の下、高等学校の教育課程に おいては、学校や生徒の選択の幅を広げ、選択科目や学校設定科目の履修を通して、生徒の興味・関心、進路希望などに応じ、より深く高度に学んだり、より幅広く学 んだりする仕組みを整え、それぞれの能力を十分に伸ばすことのできる教育の展開を目指している。この指導要領が公表されると学力低下を懸念する声が強く出された が、文部科学省は、新指導要領は教科内容のミニマムを示すものであり、それを越えて教えることを妨げるものではないと説明している。一方、大学受験に関しては、 私立校は独自のカリキュラムで対応しており、80年代以降「ゆとり教育」が重視されるたびに、弾力的なカリキュラムで対応できる私立校への進学志向が強まっている こともマスコミ等で報道されているとおりである。

 さて、学力は知識の摂取に始まり、それは初習からのたゆまぬ努力の積み重ねによって全体が構築されるものである。その場合、そこに求められるものは先ず学習の 中味を理解することであるが、理解の程度と併せて、学習内容の深さや拡がりも重要な要件となることに異論はなかろう。たしかに、「公立」という立場にある学校の 本来の役割は子供達全体の平均能力をあげることにあり、一部の優れた子供の能力の開発に重きをおくことを優先すべきでないとの意見も、論点のひとつとしてある。 しかし、教える内容が多すぎるから、それを減らせば豊かな人間性や基礎・基本が身に付き、個性が生かされ、自ら学び考える力などの「生きる力」を培うことができ るというのは、必ずしも問題点の正しい把握ではない。これは察するに、教科内容を削減して得られた時間をそのための時間に使うという主旨であろうが、両者は本来 異質のものである。たしかに、最近の子供は、森羅万象、そこに見られる様々な事象に対してなんだろうと不思議に思うことが少なく、また物事に積極的に立ち向かい 自分で考え自分で解決しようとする意欲が失われていることや、地道に努力して嫌なことに耐えることが出来なくなってきていることは、多くの識者によって指摘され ているとおりである。従って、いくら環境や条件を整備しても、学ぶ方にその気がない限り有効な改革にはなり得ない。例えが適切でなく恐縮だが、馬を川辺につれて いくことは出来ても、飲む気のない馬にいかに「ゆとり」を与えようと、無理に水を飲ますことは出来ない。いま必要なことは、馬に水を飲む気にさせることの出来る 優れた馬丁の養成である。すなわち、生徒に自分で考え自分で解決しようとするインセンティブを与えることの出来る優れた先生の養成や、それに協調できる家庭教育 の構築を、制度の改革に併せて行わなければ、新学習指導要領の狙いは机上の空論に終わることになろう。蓋し、問題の根元は容易ならざるものと考えねばならない。

 ここで翻って、東北大学における教育、とくに全学教育を考えるとき、このような学習指導要領の改革や現実の子供達が持つ本質的な問題に無関係であり得ようか。 言うまでもなくそうではない。むしろ重大な影響をもたらすものであり、それはすでに深刻な事態にあると理解すべきである。東北大学は全学の合意のもとに研究中心 大学とすることを決め、そのために体制的には大学院重点大学とした。しかもそのタスクとして、活発な知の創造を行い、常に世界的な研究成果を生みだし、世界一流 の研究中心大学としての存在でなければならないと自ら定めた。東北大学が、そのミッションに定めるところの一流の研究中心大学であるためには、そこで学ぶ学部お よび大学院学生が、すでに、高度専門職業人や教育研究者として必要な想像力や創造力、応用力や判断力、自己解決力や発展力、さらには研究倫理や国際感覚・国際言 語などの基盤的能力を具備していることが望ましい。またそのような学生を常に手元に多く蓄えてこそ、世界一流の研究中心大学であり続ける素地と体力が備わるもの と思う。ところが、18歳人口の減少による学生の学力低下の中で、そのような基盤的能力をもった学生を集める準備どころか、今もって教養部廃止後に瓦解を始めた全 学教育の再構築に追われ、そのための制度の在り方や教官意識の改革に取り組むことを余儀なくされている。それにさらに追い打ちをかけて「ゆとり教育」の「つけ」 の対処も求められ、それをどのように解決するかが今後の大きな問題となってきた。言うまでもなく、高度専門職業人や優れた教育研究者に必要な能力の養成は一朝一 夕に出来るものではなく、また忌憚なく言えば、暗記とマニュアルで育ってきた若者にわずか1〜2年の大学教育でそれを涵養することはきわめて難しいと言わざるを 得ない。たとえ出来るとしても優れた素養をもつ相当に限られた学生においてのみ可能と考えるべきであろう。ここで誤解と非難を恐れずに個人的な危倶を言えば、東 北大学の教育研究者にとって、各々が高度な学部及び大学院の専門教育に携わりながら、一方で世界に通用する研究成果の創出を義務づけられるミッションのなかで、 これから先、手抜きのない良質の全学教育をどれだけの余裕をもって行い得るであろうか。東北大学が、一方でノーベル賞を求め、他方で研究中心大学としての素地。 体力づくりに精励することが、現在の体制や条件のなかで実質的に可能であろうか。これまでの全学教育については、大学教育研究センターが設置され、同センター審 議会を中心として運営体制を整備してきたが、いま対処すべきことは、教養部が廃止されたことに由来する様々な問題の処理ではなく、新たに定めたミッションにかな う研究中心大学としてそれが必要とする全学教育の量と質、及びそれを実施出来る体制を整備することであろう。そのためには、新たな視点に立って東北大学の全学教 育の在り方を今一度検討すること
が必要となっている。その観点から総論で例を挙げれば、学部・大学院の一貫教育を考慮してもよいし、軽率には言えないが、教官の研究と教育の役割分担もあ る程度考える必要があると思う。また各論で言えば、入学時に大学院に進学することを決めている優秀な学生には、別途の教育カリキュラムを準備することも考慮に値 しよう。そのひとつとして大学院教育のなかに一部の全学教育、とくに特定の教養科目やアドバンスト語学教育などを取り入れることも考えてよいのではないだろうか。 東北大学が研究中心大学としてそれにふさわしい全学教育とそれを行い得る体制を整備してこそ、世界に通用する一流の研究中心大学として末永く存続し得るのではな いだろうか。
Festina lente

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