◇科学性と倫理性 | ||
医学系研究科教授 久道 茂 | ||
高等教育機関である大学、大学院は、現代日本人として相応しい教養と科学を学び、新しい知の発見のために研究をするところである。ここでいう教養とは、東京大学の坂村健氏(サンケイ「正論」、2001年6月24日)も述べているが、「あの人は教養豊かな人」と言われるような文化的な知識のことではなく、皆が身に付けるべき基礎知識としての一般教養であって、それには科学的思考による健全な懐疑主義を身につけるということである。私も同感である。科学は、自然科学だけではなくもちろん人文科学も含まれる。自然界の物質や生物の行動の観察から規則性を発見するのが科学の始まりであるが、特に、自然科学の場合は必然的に実験を伴うことが多い。実験とは、新しい条件を設定して様々な物質や生物などを加えたり除いたり、光、熱や湿度、圧力や磁力などの環境を変えて、対象とする物質や生物の変化を見る、場合によっては未知の新物質や生物を創造するものである。一種の介入研究と言えよう。 実験対象が、物質材料や下等動物及びその生体資料の場合は、科学的な手法を駆使することは比較的容易である。容易だという意味は対象が人間のように自分の意思を持たないからであって、超大型予算を必要とするかどうかの容易さを言っているのではない。つまり、アイディア次第でどんなことでも研究計画がたてられる。しかも、厳密に科学性を重視し、批判を受けないような完壁さで実施できる。 人間を対象とする医学・歯学・薬学研究では、そう簡単ではない。もちろん、医歯薬学基礎領域の研究でも、物質や下等動物を対象として研究も行われるが、全て人間に応用された場合の効果や効用を念頭に入れている。臨床研究は必ず人間、患者にとって有益かどうかを指標にする。どんなに精密に、完壁に、瀕回に実験が成功したとしても、動物実験だけでは人間には適用できない。最後はどうしても人間を対象とした実験、つまり科学的根拠を示さないと応用は出来ない。新薬、先端の診断技術や治療技術を応用し普及させるためには、どうしても最終段階のバリアーを通らねばならない。これがそう簡単ではないのだ。 最近、医学領域では、EBMという言葉が流行っている。Evidence-based Medicine(科学的根拠に基づいた医療)のことである。何を今さらという感じではあるが、科学的根拠ということの意味に真に気が付き始めたのはそう古いことではないのである。今、われわれが服用している薬、血圧降下剤、抗アレルギー剤、胃潰瘍治療薬など多くの薬があるが、一体全体、それらの薬が人間に効くということはどうして分かったのか、またどんな方法で証明したのか、本当に科学的といわれるような根拠を示したのか、それが問題である。われわれが服用している薬は、誰か他の人間に試してその効果を証明したに違いない。一体誰に?そのとき科学的にきちんと実験が行われたのか?また、患者個人を対象とする医療だけではなく、EBMは保健行政でも言われるようになった。新しく改正された地域保健法の基本指針の中にも「保健衛生行政というのは、科学的根拠に基づいて行われる行政である」とハッキリうたっている。 人間を対象とした実験は、動物実験や物質材料の実験のようにはいかない。科学的妥当性を低下させないような実験手法をとると倫理上で問題を生ずるのが普通である。なにしろ相手は人間である。人間を対象にする研究で科学的妥当性の最も高い研究手法は、無作為割り付け比較対照試験(Randomized controlled trial,RCT)である。例えば、新薬の薬効を調べる時に、同じ様な患者達を新薬を試す研究群と新薬を用いない(従来の薬、あるいは何の効果もない粉をいかにも新薬に似せて作った偽薬、プラセボを投与する)対照群の二群に無作為割り付けをおこない、投与後の一定期間の効果を判定するものである。副作用もなく、研究群に対する効果が対照群と比べて統計学的にも有意の差を持って「有効」と出れば、これは科学的妥当性の高い根拠として、人間に広く応用することができる。なぜ科学的かというと、従来、ともすると、「三た論法」で根拠を作ってきたことが多かったからである。「三た論法」とは、対照を置かないで「投与した、治った、故に効いた」とする論法のことである。投与したことと治ったことは事実だとしても、そのことからすぐ「故に効いた」とは言えないのである。プラセボ効果に似た作用で効いたように見えたのかもしれないし、薬とは関係のない医師の指導で効いたのかもしれないし、単純に運動と食事を変えただけで治ったのかもしれないのである。「薬を投与したことで」効いたと証明するには「三た論法」では不十分だということである。人を対象とする科学的根拠を得るための実験がいかに難しいか、倫理上の配慮も考慮すると決して簡単にはいかないことが分かるだろう。 倫理上の配慮といっても、一見人間にとって普遍的に同じ価値観と思われている「医の倫理」も、日本の倫理と世界の倫理は、決して同じではない。宗教、民族、地域、国の歴史、科学技術のレベル、場合によっては経済状況でも、「倫理」は異なることが少なくない。脳死を前提とした臓器移植に対する各国の違いを見ればすぐ理解できるであろう。学問研究は、何らかの具体的な必要に迫られて行ったり生まれるものではなく、本来、科学者の知的好奇心(Something-newism)から生まれるものである。これまではそれで良かったし、それ用の教育もされてきたと言えよう。多くの古い総合大学は、そのような研究や研究者を一種のゆとりをもって抱えてきた。しかし、近年になって、世界的な科学・技術の競争、国の財政規模の変化から、多くの研究は大型化し、目的達成型の研究に変質してきている。村上陽一郎氏(文化としての科学/技術、2001年、岩波書店)は、これを「ネオタイプの科学」と称し、以前のようなものを「プロトタイプの科学」と述べている。政府が重点的に取り組もうとしているミレニアムプロジェクトやメディカルフロンティア構想もまさしくその方向である。ネオタイプの科学では、科学者の専門グループだけではなく、別の組織や機関、ある時は納税者によって評価される。その時今まで以上に科学性と倫理性が問われるのは明らかである。 科学が技術の発展に寄与してきたこれまでと違って、最近は技術が科学の発展とその迅速化に影響を与えている。ヒトゲノム解析における解析装置の技術を考えれば気がつく。かつて、学問(科学)には真理を、技術には倫理を、と言われていた仕分けは、もはやハッキリしなくなったと言えよう。人を対象とする医歯薬学研究では、ことさらに科学性と倫理性で悩むのである。 |
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