◇教養―リンクする「底力」
(平成2年3月薬学部卒)(平成8年薬学研究科(博士課程)修了)  瀬名 秀明(本名:鈴木秀明)
 なぜ教養教育が重要なのだろう。思い返してみると不思議だ。大学で一般教養科目の講義を受けていたとき、この根本的な問いに対して教員や友人と話した記憶がない。講義の中でそれに類する答を聞いた覚えもない。美学や語学などはかなり楽しんで受講していたが、それは単純に面白い講義だったからであって、教養を身につけるためなどとは思わなかった。あの頃の自分は冒頭の質問にどう答えるか。たぶん当たり障りのない優等生的な回答を返すだろう。幅広い知識と教養を身につけることは人生を豊かにするし、視野を広げることにもなって、それは専門分野を学ぶときにも役立つから、とかなんとか。たぶん、この答でも結果的にそれはど間違いではないはずだ。しかし本当に問題なのは、その題目の意味が学生も教授陣も“実感”できないことにあるのだと思う。本当に教養は人生を豊かにするのだろうか?本当に自分の専門分野にも役立つのだろうか?――教養教育の真の目的は、おそらくこういった根本的な疑間に対して、“実感”を伴った回答を(一例でも)与えることなのだ。私が東北大学大学院薬学研究科博士課程を修了したのは平成八年のことである。この前年に小説『パラサイト・イヴ』を刊行していたので、論文をまとめる段階になって時間が取れず、所属講座にかなりの迷惑をかけてしまった。その後、研究員の肩書きを経て、宮城大学看護学部に講師として三年間勤めた。現在は作家業のほうに重心を置いている。卒業研究の時期から修士、博士課程にかけては、正直なところあまり「教養」などということについて真剣に考えることはなかった。もちろん研究をしながら、もっと英語や統計学やコンピュータを勉強しておけばよかったなどと思うことは頻繁にあったが、それを教養の問題というのはずいぶんずれているような気もした。きっかけは、おそらく『パラサイト・イヴ』だったのだろう。この小説は、私が研究で扱っていた細胞小器官「ミトコンドリア」を題材にしたホラーで、大学研究室の様子をふんだんに盛り込んでいる。私は実験の合間に教官の目を盗んで大学図書館へ行き、ミトコンドリアというキーワードに引っかかる文献を幾つも漁った。当時、私が研究していたのは、ミトコンドリアの中で働く脂質代謝酵素だ。生化学や細胞生物学の領域である。ミトコンドリアはこういった酵素を使いながら食べ物を消化して、エネルギーの素をつくり出す役目を担っているのだが、実はそのほかにもさまざまな側面を持っている。生活習慣病や老化にも密接に関わっており、また個体の生と死を司る場合もある。ミトコンドリアの中に含まれる特殊なDNAは、生命進化の歴史を探るのに用いられる。また腎移植の際には免疫抑制剤が投与されるが、これはミトコンドリアの姿を驚くほど変貌させるのだ。

 ここで私はようやく気づいた。自分は大学院でずっとミトコンドリアを扱ってきたのに、研究テーマ以外のミトコンドリアの論文をほとんど読んだことがなかったのだ。専門が先にあるのではなく、面白いと思う事象が先にあることを私たちは忘れてはならない。いま盛んに学際的取り組みの重要性が叫ばれている。あまり効果は上がっていないようだが、実際に社会に出て問題が発生するのは、物事の枠組みがまさに「専門領域」で括れなくなってしまったときだ。文化の違う人間同士が協力して何かをつくり出すとき。既存の考え方を超えて新しいものを生み出そうとするとき。そのとき私たちは、はじめて専門以外の知識を必要とし、リンクする能力を試される。しかし、専門分野の外のことを何も知らず、またそれ以前に興味さえ持てずに、自分の専門分野の方法論に固執していたらどうだろう?リンクすることなどできるだろうか?小説を書くことも同じだ。何かと何かを繋げて物語を構築することで、新しい価値観や発想を提示し、読者を楽しませる。ひとつのことだけに精通していればいいわけではない。『パラサイト・イヴ』でもミトコンドリアという題材を中心に据えることによって、生命進化から腎移植の問題までもひとつの物語の中でリンクさせることができた。専門領域の論文ばかり読んでいたのでは、このスリルは絶対に味わえない。つまり、「教養」とは、リンクするための底力なのである。問題を解決し、そして新しい面白さを生み出すための底力といってもいい。知識だけ広範に持っていても駄目だということがこれでわかるだろう。物事を自分と関連づける膂力がない限り、それはいつまでも「教養」になりえない。私たちは、この「リンクする力」をどこかできっちりと習っているだろうか?大学一、二年生の頃は、自分が面白いと思う本や映画や音楽や絵画を存分に吸収して、面白いと思うことをすればいいと思う。その一方で、自分が選んだ専門分野をどんどん勉強すればいい。大学で教養教育が必要なのはなぜか。それは、私たちが中学や高校で勉強してゆく過程で、面白いと思う心をいつしか忘れていってしまうからだ。科目ごとに試験を受けることに慣れてしまい、もともと世界は学問分野などに細分化されることのないひとつのものであることを忘れてしまう。面白さを取り戻さなければならない。だから教養の講義では、とにかく教授陣が自分の面白いと思うことをひたすらしゃべりまくればよいのである。下手に講義を総論的に構成して、自分のよく知らない分野のことまで話すのは禁物だ。一コマが一五回の講義だとしたら、自分が面白いと思うトピックを一五個話せばよい。面白いと思うことが一五個もないという教授は、もとより教養教育に携わるべきではない。教授が面白いと感じることを熱心に伝える。面白さを学生と共有することが教養の第一歩だと私は思う。だがそれだけでは不充分だ。私が考える次の段階は、異なる学問分野のミックスである。例えば、薬学と経済学の教授がひとりずつ出てきて、同じ壇上に立ち、ディスカッションしながらふたりで講義を進めてゆくのだ。薬学と経済学の接点に広がる社会的問題とは何か、それを解決するための研究をどのように組み立てるか、互いの研究観を尊重しつつ、いかにコラボレーションしてゆくか。語るべき内容はたくさんある。従来の講義になかったダイナミズムが生まれるはずだ。この講義をするためには、教授自身に広く深い教養が求められる。リンクする力を教授陣が身をもって示すのだ。と同時に学生側にも、ディスカッションを聴いて理解し、咀嚼する能力が求められることになる。もし私が教養の講義をするのなら、例えば――そう、自分の本で扱った題材を一五個並べて、ひとつひとつ話をしてみたい。ミトコンドリア、脳科学、UFO、博物館、人工生命、ロボットにプラネタリウム…。ばらばらだと思われるかもしれない。だが、これらはただひとつの事実で強く結び合わさっている。私が面白いと思った分野だということだ。専門家ではないので、深いところまでは話せないかもしれない。最新の細かいトピックは話せないかもしれない。所詮は作家という「素人」の雑談になるのかもしれない。だが私は、いまや物語の専門家になってしまった。たぶんいまの私にできるのは、教養から専門への道筋を伝えることくらいである。私の本を読んだり話を聴いたりした人の中から、ひとりでも作家や科学者が生まれれば、少しは甲斐もあるのではないかと思う。

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