◇これからの大学の役割雑感
東北大学総長  阿部 博之
 20世紀は戦争の時代、破壊の時代などといわれました。そのためもあって、21世紀に対するさまざまな期待が報道され、新世紀に移行したのであります。しかし21世紀は、初年から戦争の年となり、新世紀の行方は暗雲から出発することになりました。

 21世紀は20世紀の継続であり、暦によって一新されるものでないという主張は正しいでしょう。しかしながら、20世紀には実現できなかった世界を21世紀には創れるのではないかという期待は、是非とも大切にしていかなければなりません。


 21世紀の流れを二つあげるとすれば、その一つは、ボーダレス化ないしグローバル化の加速でありましょう。もう一つは、文明間の衝突のさらなる顕在化ではないでしょうか。後者は、異なる規範に基づいて成り立っている国、民族ないし社会の間の衝突と言い換える方がよいかもしれません。このような二つの流れの中で、日本がどう生きていくか、人類と地球の未来にどう貢献していくか、が問われているのです。そしてこのことは、第二次大戦後の日本の常識では希薄になってしまいましたが、本来の、特にこれからの大学の大きい役割に密接に関連しているのです。


 地球環境の維持ないし持続的利用は、21世紀に引き継がれた大きい課題の一つです。日本は汚染制御技術において優れ、米国は環境浄化技術において優れているといわれますが、このことは自然に対する両国の認識と大いに関係しているように思われます。

 西洋においては、人間は自然的環境、文化的環境と独立しており、自然の法則に従いながら環境を自分たちのために整備する、いわゆる人間中心主義の考えが強いといえます。これに対して日本では、人間は環境の一部であるとの意識が強いのであります。従ってそれに没入してしまうか、破壊してしまうか、どちらかの極端に陥りやすい(沼田裕之名誉教授、教育目的のための比較文化的考察、玉川大学出版部)、といえるでしょう。さらには人間そのものの存在が自然に反するという認識もあります。

 先進国だけがエネルギーを大きく消費している時代を続けることはできません。これからは省エネルギー型科学技術の展開に加え、先進国のライフスタイルをどう変えていくかが問われています。もちろん併せて、地球環境調和型のエネルギー利用を促進していかなければなりません。

 地球環境問題を、西洋的認識のみに基づいて解決することには、限界があります。アジア的ないし日本的認識に基づく考え方を積極的に発信していくことが必要であり、その責任が日本にあるのではないでしょうか。当然のことながら、このような発信の必要性は、地球環境問題に限りません。


 アジアの近代化の百数十年の歴史は、一般的にいえば西洋に批判的な考えがあったにもかかわらず、結果として西洋化を進めてきたといえるように思います。アジアの良さを主張しても、文明の競争力がなければ保守主義の域を出ず、結局はなし崩し的に西洋化だけが進んだともいえます。もちろん日本も例外ではありません。西洋化を、欧米化ないしグローバル化に置き換えても、上記の議論は類似であります。


 さて話を大学の役割に戻しましょう。

 国ないし地域の経済の活性化に対する大学への期待が、最近遅ればせながら新聞紙上などで取り上げられるようになりました。不況が深刻化したためでありましょう。産学ないし産学官連携については、長年月にわたって議論がありこれからも続きますが、不況からの脱出など経済政策の中に大学ヘの期待が出てくることはこれまではほとんど皆無であったと思います。このようなこれまでの大学ヘの期待は、いわば日本の特異現象で、欧米の状況は以前から著しく異なっておりました。

 産学官連携については、これ以上の説明は省略しますが、大学の本来の研究教育に資するものでなければ結局は成功しない、ということだけを強調しておきたいと思います。

 経済や金融政策への大学の寄与は、国レベルの将来の方向の決定にもある筈です。1985年の「プラザ合意」からバブル経済までの見通しの稚劣さが、その後の今日に至るまでの苦境を招いたとの指摘がしばしばなされます。その原因の分析は専門家に委ねるとして、当時の判断に、専門家、特に大学の知恵が活用されなかったことが何よりも残念です。

 経済関連に限らず、あらゆる分野の、特に将来に対する国の将来に向けたグランドデザインについて、大学に十分な蓄積を求めなかったことは、日本の大学の存在が異質であったといわざるを得ません。このことは、高度の専門家を育成することに熱心でなかった戦後の各界の人事システムとも無縁ではないでしょう。


 21世紀は「知の世紀」といわれています。日本がこれを目標にするとすれば、文明において高い評価を受け、憧憬される国を目指すということでしょう。しかし大学を抜きにしてこの目標の達成はあり得ません。

 大学の研究は、ほとんどの分野において、国境を越えた基準によって評価されます。東北大学はいくつかの極めて強い分野を中心に、国際的にまさに一級の評価を受けています。言い換えれば、極めて高い国際競争力を有しているということです。もちろん更なる努力が必要です。

 一方、大学教育の水準の向上並びに課外活動や学生生活の質の向上とそれらに係るキャンパスの整備は、諸外国と比較すると十分ではありません。国も社会も大学も、国内事情中心に整備を求めてきた結果であります。しかしボーダレス化の進行は、大学に高い国際通用性をもつ卒業生、修了生を求めており、国内事情中心の整備の転換を急がなければなりません。

 以上によって東北大学は、研究、教育の両面で高水準の魅力的な大学としての評価を国の内外から受けることになるでしょう。開学以来の精神からしても、東北大学はこのような整備を先導していく責任を有しています。`

 日本全体からみて、このような高水準の大学を一定数持つことができれば、日本とは異なる規範に基づいて成り立っている国や社会に対して、日本人の自然観に基づく先人の知恵や、日本の良さを発信していく説得力を持ったことになります。そしてこのことこそが、人類と地球の未来に対して調和が生まれる必要条件ではないでしょうか。


 詳しくは述べませんでしたが、国際的に魅力のある研究中心大学(research-intensive university)を整備していくことと、新しい都市づくり、地域づくりはほぼ完全に重なること、それが世界の趨勢であることを述べて、この稿を終わります。

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