◇一医学部退官教授の追想 ―21世紀の医学、分化から統合ヘ | ||
前医学系研究科教授 名倉 宏 | ||
私が医者というものの存在を意識し、漠然とした憧れを拘き始めてはや半世紀の歳月が過ぎてしまった。その間、医師免許証をとり、病気の診断と治療法を学んだ。いっぽうで病気の成因を追及すべく医学という生命科学に情熱を燃やし、また教壇にあがっては自分の病気に対する挑戦を学生諸君に熱く語りつづけてきた。気が付いたら停年を迎えていた。 かつて大学で教鞭をとり、また臨床医でもあった作家渡辺淳一先生が少し前にNHK教育テレビで「自然科学としての医学」という題で放送していた。その中で私達医学を学ぶ者にとって非常に考えさせられることを述べていた。日本では「医学とは生物、物理、化学、数学などの多くの自然科学を基礎とする総合科学で、人間の生命の機構を解明することを目的とする高度の科学である。その医学の社会的適用が医療であり…。」と定義されているが、ドイツでは「医学は人間文化の一分野で、個人および集団の健康を守り、病気を回復せしめ社会に復帰させることを目的とする」とされ、米国の医学者や医者もほぼ同じような意識のようである。 私自身も医学部に入学し、当時の教養部、そして医学部の教官から日本での定義のように教えられ、必死に自然科学について知識の蓄積をしたものであった。そして病気になられた患者の体に、そしてそこから摘出された組織や細胞に表現される生命の営みとその異常な変化をワクワクとして観察し、可能な限り細部にわたり客観的に描写し、それを“科学的”と信じて学術論文として公表してきた。 ヒトの生命現象とその異常である疾病は生物学、物理学、化学、数学等の周辺の自然科学における発展とあいまって、個体から組織や細胞、そしてそれを構成する分子レベルまで細分化して詳細に分析され、生命の営みやその乱れはアルファベットや数字表現されるようになった。それによって、あたかも人類がヒトの生命の誕生の根源にもせまったと、もてはやされたのもつい先日のことであった。特に我国の医学者の多くはそうした錯覚に酔っていた。しかし分子病理学分野で指導的な役割を果している同僚の教授は私に、「たとえ遺伝子の変化がヒトのがん細胞から検出されたとしてもそれは“がん”でなく、がん細胞に出現した異常現象である。ヒトを苦しめ、死の恐怖に陥しめて始めて“がん”という“病気”となる」といわれた。すなわち“がんの医学”はがん細胞やがん遺伝子を研究する自然科学であるばかりでなく、“がん”が「ヒトが地球上に生を受け、生命を全うし、次の世代に自分の遺伝子ばかりでなくそのヒトが築いた文化を伝えていく課程において、それを阻む代表的な病気であるという」理解の許で、がんに冒されているヒト(担がん生体)を研究する学問領域でもあるといえる。 私が本学の入学試験実施本部総務部長を勤めていた時、当時の文部省の担当官と雑談していた中で、医学部の入試は他の学部と同じ問題で知識を問うだけでよろしいかと聞かれ、答えに窮したことがある。東北大学では全国の国立大学に先がけAO入試を導入し、受験生の全人的な選抜法の試みを始めた。残念ながら医学部ではまだ採用していないが、私達医学部教官に嫁せられた大きな課題である。人間文化を科学とする医学の担い手である人材の選抜である入学試験であるだけにそれは急務であると思われる。阿部総長の命を受け、米国の入学試験制度の視察に行った時、医学部入試の実態も見聞したが、米国では一般教養を身につけた学生が自然科学の知識とともにその人間性や社会活動、倫理性等全人格について数ヶ月にわたる審査を受け、医学部に入学を許可されている。前述の「医学は人間文化の一分野で…」という彼等の認識がよく理解される。しかも医学生物学領域のノーベル受賞者は米国に一番多いことを私達は真撃に受け止めなければならない。国際学会での何気ない会話の中にも、同じ分野の研究者の専門以外の知識の広さや社会性に驚嘆することがしばしばである。 最近新聞紙上で、オーストラリアのダウン症(染色体の異常があり体や脳の発育に影響を受けている)をもつ俳優が、私は「障害者ではありません。障害をもった人間です。そうです人間です。」と語っている記事を読んだが、身体やその機能の障害や欠落を即“障害者”と呼び、その障害をそのヒトの全人格と同一視してしまう日本の医学の欠陥を指摘されたようである。遺伝子の障害にがん“患者”というレッテルをはってしまうことと同じ次元の誤りである。がん遺伝子の解析は最先端の“科学”であるが、“医学”でないことを、私の同僚教授の言を待つまでもなく、医学やそれに関連した分野に学ぶ学生諸君に強調したい。 私は、3年にわたって医学部倫理委員会の委員長を勤めてきたが、医学研究の倫理性は、医学研究がヒトの細胞やその遺伝子、組織の変化を研究する為の学問領域でなく、それらの障害を有する人間を対象とした人間学であるという認識の許に始めて構築されることを主張してきた。痛み、死の恐怖、生きる喜びをもった人間を意識して始めて医学の倫理性が確保できることを、私は機会あるごとに述べてきた。これまでヒトの老化や死、病気は自然の摂理にゆだねられ、年老いたヒトの死は天寿として受容されてきた。しかし医学医療の進歩はヒトのこれらを人為的な選択あるいは強制にゆだねつつある。それに対して廷命治療や現代の医学では治癒が困難な病気の治療のあり方について、そのヒト自身の生き方、生命の質(quality of life;QOL)という視点が現在重要視されつつある。これが医学研究や医療の倫理性の基礎となるものである。 21世紀は、まさしく20世紀の後半に極限まで細分化された生命科学を人間学に統合して真の医学を構築する世紀と考えている。幸い退官後も私は臨床医学、すなわち病気のヒトにより密接した現場で医学やその関連領域の研究を継続できることになり、いま一度人間学としての医学に挑戦してみたい。 |
||
前ページ |
次ページ |