◇ドイツ語インテンシブ・コース
前国際文化研究科教授  青山 隆夫
 ドイツ語教師として39年、無事定年を迎えようとしている。そのうち28年余をこの川内北地区で過ごしたことになる。その間を振り返り、教養教育の改革に関して私たちドイツ語学科の有志が行ったドイツ語の実験教育インテンシブ・コースについて、この機会にすこし述べておきたい。この試みの発足のいきさつ等を知る者がだんだんいなくなるからである。

 昭和52年官城教育大学から教養部に移った年に、丁度文学部に着任したドイツ人教師アルトホーフ博士と話をしているうちに、ドイツ語の実験的な授業をやろうということになった。教養部でもすでに数人の先輩が、LLを使用し、新しい視聴覚の教材による授業を展開していた。しかしドイツ語の授業の在り方に関する教師同士の批判的な検討はそれまでなされてこなかった。この話をドイツ語学科会議にもちだすと、学科の全員が関与するのでなく、有志が行う限りは勝手であるという了解がえられた。こうしてさっそくその夏にドイツ語の実験授業を行った。ドイツ語授業改善プロジェクト・チームによるドイツ語インテンシブ・コースの始まりである。最初はアルトホーフ氏を加えて6名、その後メンバーの入れ替えを繰り返しながら10年以上も継続された。そのときの意図は、ドイツ語教師の意識改革をおこなうことであった。研究第一主義をとなえる東北大学の中で、とかく一般教育と蔑まれている教養部の存在意義を問うといえば、教育の重視でしかないという意識があった。現在ようやく教育評価の必要性が大学の中で定着してきているが、当時はドイツ語を懸命に教えることの重要性を、小声でしか主張できなかった。

 一方ドイツ人教師アルトホーフ氏としては、徐々に日本の大学の外国語教育に占めるドイツ語の地盤沈下をくいとめ、いかに魅力ある授業を展開するかが問題であった。「外国語としてのドイツ語」という視点がようやくドイツの大学でも定着する頃のことであった。そこでドイツ語教授法の訓練を積んだ新任教師として、学部での教育ではなくいわばまだ手垢のつかない初修の学生を対象に、実験をすることに意味があった。やがて学部でドイツ語をさらに学ぶ学生がでてくれば、それはそれで独文科の学生の早期教育にもなるはずだった。さてテクストの選択から、評価にもいたる共同での検証は、目新しいものであった。アルトホーフ氏がドイツの新教授法にしたがい、おおよそ初級文法の項目にそったドイツ語の文章を提示し、それに日本人教師側の意見も入れて受講生向けに作り直し、タイプを打ってすぐにコピーを配布するというやり方だった。ドイツ語のみで授業は繰り広げられ、われわれは理解の不十分な受講生の間で補助した。

 休暇中の教室使用の申請から始まり、数日間の合宿に東北学院大学の青根セミナーハウスの借用、参加者の移動、食事、経費等の問題も、有志の実験授業に対する熱意で解決することができた。コース参加の学生は全学部におよび、暑い2週間、単位と関係のない勉強でも最後まで脱落者はなかった。この最初の参加者から、ドイツ語教師が何人もうまれ、なかにはやがて同僚としてインテンシブ・コースを続けていく者もでてきた。

 次第にアルトホーフ氏の授業を補助するだけではなく、それぞれに授業を担当もした。その活動は教養部紀要に実践報告として発表され、またセンター試験の作題についての意見がドイツ語教育学会の機関誌に掲載された。夏のインテンシブ・コースだけでは不十分ということで、翌年の春休みにも同じ学生にたいして2回目のコースが行われた。ドイツ学術交流会がこの活動に注目して、この年に3名、翌年2名のメンバーを数カ月間ドイツの教育事情の視察に招待した。その見聞と経験は、さらに継続されることになったコースにフィードバックされた。

 アルトホーフ氏は3年後に帰国したが、東北大学としての授業改善の実験的試行はミニマル・グラマティクの検討から、総合的な教育評価の試みにまですすんだ。達成度評価のために統一問題を作成し、全学部を対象にテストを実施した。その採点と分析のために、プロジェクト・チームのメンバーは春休みの大半を費やすこととなった。チームのメンバー以外の者から、夏季、春季休暇の大事な自己研修・研究の期間に、論文も書かずにいると批判する声も聞かれた。それにたいしてインテンシブ・コースの報告書が何度か発表されたが、最後の総括は未発表のままとなった。ひとつにはメンバーの定年と他大学への転出等で入れ替わりがあり、対応しきれなかったことと、他方では初級コースの実験から、やや上級のランデスクンデ(地誌)の授業へと方向性を変えたためでもある。

 プロジェクト・チームを設けた当初、東京ドイツ文化センターでのドイツ教育改善検討会に常時参加し、日本の大学におけるドイツ語教育の現状分析と、あるべき姿への提言にむけて討論した。それを仙台に持ち帰り自分たちの状況にあわせてさらに検討をすすめた。また文部省とゲーテ・インスティトゥート共催の野尻湖での夏季ドイツ語講習会には、企画・運営委員として数年間参加し、そのノウハウが仙台で活かされた。ランデスクンデの試みは、やがてドイツ語学科が担当する総合科目として正規の授業となり、教養部改組の際にカリキュラムの整備に応えるものとなった。2年生のカリキュラムでは、文化地誌・会話・総合等のメニュー制が導入され選択の幅が広がり、ほぼ現在にまで至っている。

 いま25年前と比べてみると、ネイティブ・スピーカの教師も増えて、教材も視聴覚・ランデスクンデ対応のものが多くなった。初修外国語に関しては、理系各学部の必修単位が減ることになったが、もともと自発的な学習を促すには必修で縛ることはよくない。その分意欲のある受講者に応えることができる体制を考えなければならない。そこに選択の授業としてインテンシブ・コースの存在の意味がある。いずれインテンシブ・コースが正規の授業としてなることが望まれる。実践外国語で外部試験が単位として認められるようになり、CALLシステム等により自学自習が日常化すれば、インテンシブ・コースはおおいにその威力を発揮することだろう。またドイツの大学等の夏季講習の参加が単位と認定されることも、国際化という状況下おおいに検討すべき事項であろう。

 25年前のドイツ語学科の有志による実験的な試みが、これらの課題の出発点であったといまさらに感じる。数年前ドイツからアルトホーフ氏の突然の訃報がはいった。また当時の献身的な有志の先輩で亡くなられた方も数名ある。四半世紀とはそれなりの重みを持つのである。
(2001年1月)

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