◇ひたむきに努力する若者に未来は拓ける | ||
前未来科学技術共同研究センター教授 大見 忠弘 | ||
“光陰矢の如し”の格言を実感している。1972年4月、学部、大学院、助手時代を合わせて15年間お世話になった東京工業大学から東北大学に着任して、まさに“あっ”という間に30年の歳月が流れた。当時5歳と3歳であった息子と娘は仙台の子として立派に成入したが、父親、ワイフ、母親をあの世に送った30年間でもあった。 1984年12月までは電気通信研究所において西澤潤一教授に御指導を賜り、1985年からは工学部電子工学科にお世話になった。東工大と東北大というカルチャーの異なる二つの大学で研究生活を送れたことは、筆者にとってきわめて幸運であった。“隣の芝生は青く見える”などという幻想にとらわれることはまったくなかったし、“中央コンプレックス”にとらわれ東京の諸君に迎合する必要もなかった。研究に必要なモノ作りに自ら真正面に挑んでいる東北大学の姿は、筆者にとって鮮烈であった。“本当の学問がここにはある”との思いを深めた。東京工業大学時代も、相当程度実験に力を注いだが、理論的研究が先行し、研究に必要な試料・サンプルを満足に作れないため、大きな目標に向かって怒涛の如く押し寄せるという正規戦的研究からは程遠い、つまみ食い的ゲリラ戦的な研究に終始していた。ゲリラ戦では戦の大勢は決まらない。死ぬまでの間に一度でいいから大平原に兵を進めて正規戦的研究開発を戦ってみたいと考えていた筆者にとって、東北大学の研究姿勢はその可能性を予感させるに十分であった。そうした東北大学にとっても如何ともし難いことが当時は存在した。政治、経済は言うに及ばず、学問・文化・芸術の東京一極集中に由来する情報不足のハンディキャップであった。東京工業大学時代には、耳学問で周辺で進行している多くの研究開発を知っていた。学会等に出席しても、まったく新しいと思える発表は殆んどないというぐらいであったものが、東北大学に着任してからは学会に出てみると聞くこと見ることすべてが目新しいという状況に変った。“田舎の3年、都の昼寝”のことわざを痛感する事態になった。新しい情報は自分から手にいれに行かなければならないと気が付いて、新聞、雑誌の購読数を増やし、東京との電話も相当に使った。長距離電話代の高さに仰天したのもこの頃のことである。当時、法政大学におられた伊東光晴教授の、“近距離通話代は格安にして、長距離通話代を高くしている現在の電話料金体系は福祉型料金体系で大変好ましいものです。長距離電話を主として使用するのは企業ですから”、とのテレビ番組での発言に“何ということを言うのか、地方への思いやりがなさすぎる”。若気の至りでカンカンに怒っていたのもこの頃のことである。情報収集に相当の出費が必要な状況は、筆者の研究室の成果が世界に知れわたり、世界中からできたてのホヤホヤの研究成果がその当事者から筆者の元にもたらされるようになるまで、およそ15年間続いた。インターネットが普及した今日においては、こうした情報収集のハンディキャップは地方にも無くなっている。一生を大学で送った筆者は、大学、大学人の役割・使命について、つねに考え続けた。“マイクロエレクトロニクス分野の進歩発展に大学はなに一つ役に立っていない”などという大学に対する批判も産業界からさんざん聞かされた。産業界を先導できる成果を連続して創出するにいたる研究・実験環境が存在しない無念さをかみしめる日々でもあった。言うまでもなく、我々工学系分野を専攻する大学、大学人の使命は、“新しい学問・技術を創出し、人の世の役に立つこと”である。大学で誕生した新しい学問・技術をベースにして、新しい産業が興り“より良いモノがより安くより速く”人々の手元に届いて初めて人の世の役に立つのであるから、“新産業創出”も本来初めから大学の使命のはずである。しかし、わが国の国立大学が明確に新産業創出を使命として掲げるまでには、本学未来科学技術共同研究センター(New Industry Creation Hatchery Center:NICHe)が設立される1998年4月まで待たねばならなかった。 1998年4月からの最後の4年間を筆者はNICHeを中心に活動した。工学研究科電子工学専攻で着々と築き上げた多くの新技術が、実用化・事業化の段階を迎える時期でもあったので、NICHe設立は筆者にとってまさに絶好のタイミングであった。当然のことながら大学は、産業界・企業にくらべて、研究者(主として大学院学生、特に博士課程学生が大学の研究の中心)の数も少ないし研究費も圧倒的に少ない。短期決戦・体力勝負型の研究開発は、大学にまったく適さない。我々大学人は、研究開発等でどんなに多忙な状態にあっても、週に数回学部学生諸君への講義を担当する。まったくの自紙状態で入学してくる学生諸君に対する講義内容は、その学問・技術分野の根幹をなす普遍的真理を伝えるものでなければならず、枝葉末節にとらわれない原理原則に基づく思考方法すなわち真理の前に頭を垂れる姿勢の伝授が中心である。結果として、大学人は普遍的真理に基づく原理原則的思考が日常化することから、その時推行している研究開発にどれほど没頭していても、思考が局所化・局在化することが無い。全体を貫く普遍的真理は、何かをつねに考え続ける思考が日常化している大学人は、現状の技術にとらわれることなくあるべき理想の姿・技術体系を理論的に予見・洞察する能力に優れている。理想の技術体系に到達するために必要な開発課題を十分な検討を経て抽出し、世界中のどこよりも圧倒的に早くその課題の研究に着手することが可能である。オリンピックやワールドカップ等スポーツの世界ではフライングは認められないが、研究開発分野の楽しさはフライングありでいくら早く走り始めても、ほめられることはあっても叱られることはないことにある。産業界に比べて少ない研究者数(大学院学生数)で少ない研究費であっても無人の荒野を走り、主要な特許をすべて握ることができる。誰よりも早く走り始めるからである。新しい学問・技術創出のための研究開発は、世界中どこに居るか分らない、見えない相手との競争であり、誰の目にも見えない所で戦われる。人の目に見えるようになった時には主要な勝負は決している。新しい学問・技術の創出を使命とする大学の研究開発の厳しさは、常にその成果が世界最初でなければならないことにある。二番手になったら、もはやそれは新しくはないからである。他人に褒められたり、頭を撫でられたりすることはまったくなく、自分が予見・洞察した未来のあるべき理想の技術体系実現に向かって、自分で自分の心に火を灯し闘志を燃やし続ける強い精神力が大学人には求められる。新しい学問・技術はある一人の学者・研究者の頭の中に誕生する。その着想が当時の学説に照らして、どれほど奇想天外なものであっても、正しく行われた実験結果がすべて同じ結果を示せば、その学説は正しいことになる。完全な再現性を有する実験技術・実験環境が、新しい学問・技術の創出には不可欠ということになる。筆者にとってはそれが、1984年5月、及び1986年3月に竣工した片平キャンパスのミニクリーンルーム、スーパークリーンルーム棟、1989年9月及び2002年1月竣工した青葉山キャンパスのミニスーパークリーンルーム及び、未来情報産業研究館に代表されるSuper Clean Facilityである。 20世紀後半、社会構造・産業構造を工業型社会から情報型社会に劇的に転換させた最大の主役は、1971年に登場したマイクロプロセッサを中心とする半導体集積回路(超LSI:Large Scale Intergration)である。自然言語で世界中の誰もが進んだグローバルネットワーク社会(必要な情報を世界中から瞬時に検索し、世界中の関連する人々に、一個人が必要な情報を発信できるなど、個人が活き活きと活躍できる社会)を駆使できる時代を目指して超LSIの高性能化の流れは止まらない。すなわち、超微細化・超大規模システム集積化の流れである。最小寸法が100nm(ナノメートル)以下に微細化される超LSIの信頼性、すなわちいっさい誤動作せず正しい処理結果を保証し続けるには、バラツキ,変動,ゆらぎ,雑音を徹底的に抑制する製造技術が本質的に必要となる。そのために、筆者は超LSIの製造方式を根本的に変えようとしている。1000℃前後の高温熱処理分子反応ベースの生産方式から、500℃以下の低温で反応性に富んだラジカル反応ベースの生産方式へである。これまで、シリコン結晶の本来の性能の良さを駆使できなかった半導体産業は、ラジカル反応ベースの生産方式を導入することにより、シリコン結晶本来の性能を存分に活用した超高性能超LSIを創出する、本当のシリコン産業をスタートさせようとしている。 このように半導体産業を新しいステージに立ち上げるためには、15年を越える長い年月にわたるさまざまな研究開発が必要であった。シリコン結晶表面にいっさいダメージや汚染を与えることのない、マイクロ波励起超低電子温度高密度プラズマ装置が、ラジカル反応ベース生産方式を可能にした要の技術である。この新しい装置を筆者等が開発した時に、日本の代表的装置メーカである東京エレクトロン(株)の松岡孝明氏(本年4月、松岡氏は本学工学研究科社会人博士過程に入学)は、“この装置は、中学・高校の理科,大学教養課程の物理・化学を完全に理解し体系化した上で目的を具現化したものですね”と評価された。その慧眼に筆者は率直に驚いた。中学・高校そして大学の教養課程で、我々は自然科学の法則・原理を殆どすべて教わっている。その内容を十分に理解し自分の中で体系化し、日常の研究開発活動に存分に活用できる人達は、世界の超一流の研究者・技術者である。 科学技術の進歩は速く、技術の体系は単品技術から総合化・集積化システム技術に急速に変化している。全体像を理解しないと研究開発課題を見つけ出すことすら難しい時代になっている。才能豊かな若者の出番である。中学・高校で学んだことは言うに及ばず、大学入学後に学ぶすべてのことを、徹底的に理解し、いつでも活用できるように自分流に体系化する努力をし続ける学生諸君を社会は待ち望んでいる。明るい21世紀を拓くためにである。 |
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