◇白日夢想
経済学研究科教授 柴田信也
 いつの間にか思いもしない長い時間が過ぎ、いたずらに馬齢を重ねてきたものだ、と自分でも半ば驚きつつ、来し方を振り返えってみると、多少の感慨も湧いてくる。その一つは、客観的な体力の低下は歴然としているのに、現時点における自分がまだ青春時代の単純な延長線上にあって、この間に、内面的な意味での、ある種の断絶や飛躍の自覚もないままに、一瞬にして今日に至った、という実感である。つまりは、何らの成長も遂げなかった、ということであろう。正直なところ、これは、子供の頃に、今の私の年齢層に属する人たちに対して抱いていた距離感とは逆方向の、不思議な感覚である。

 とはいっても、私も時として次のような夢想をすることがある。もしも、メフィストォフェレスと契約を結んだファウストのように、現在の時間を、自分の望む時期―例えば18歳の頃―に自由に戻すことが許されるならば、そのときに、自分はどんな生き方を撰ぶであろうか、と。そうしたことが、現実には絶対的に起こりえないという意味では、それは、文字通り夢想・妄想に過ぎないが、他方で、この夢想は、どう頑張ってみても、精々、自分のこれまでの経験や知見に規定される範囲内でしか自由に飛翔しえないという意味では、何ほどかの現実性を帯びた夢想でもありうる。

 私はPolitical Economyを専門分野としているが、教師の常として、ゼミ生などから、屡々、さしあたりどんな本を読むべきか、どんな勉強の仕方がよいか、といった趣旨の質問をうけることがある。事柄の本性上、こうした問いに対する特定の解などありえようがないから、「太初に行為ありき」―本の読み方は各人各様。ある問題意識から系統的に文献を読み進めていく場合もあれば、乱読を通して新たな問題意識や興味を発見する場合もある。要は経済学を専攻する者としての自覚をもって各自のスタイルで適当なものを読み始めればよい、といった一般的な答え方になってしまう。しかし、そうした紋切り型の言いぐさではなく、もう少し具体的な意見を述べて欲しい、と詰め寄られるならば、如上のような夢想境に逃避せざるをえないことになる。つまり、仮に、私がもう一度学生からやり直す機会を与えられるようなことがあれば、今度はこんな勉強の仕方をしてみたい、という希望表明である。

 だが、考えてみればこれもおかしな話である。自分が嘗てやらなかったこと、あるいはやれなかったことを、無媒介に他人に推奨することになるからである。しかし、実は、これこそ人生における絶対的な矛盾なのであろう。豊富な時間を惜しげもなく浪費し、それを浪費と感じないのが、まさに青春時代の特徴なのであり、自分に残された時間の多寡を、自覚的に意識するようになった者のみが、無為に過ぎ去った時間の山を悔い、前方に残された僅かの時間をいとおしいと感ずるのである。

 ともあれ、現在の境地にあって、ただ肉体的な若さと学生時代をやり直すチャンスとを与えられるならば、元来不器用な私は、勉学に対する基本的スタンスを、これまでと大幅に変えることはないであろうが、時間の使い方に、若干の改善を試みるであろう。

 まず、大学在籍中のできるだけ早い時期に、できれば複数の外国語を、一定程度の水準において、マスターすることを目指すであろう。できるだけ早期にというのは、単純に、記憶力の旺盛なうちに、という意味合いであり、語学修得のためのエネルギーの支出とその成果、という観点からの合理性を合意している。(実は、私は50歳を過ぎてから、一朝思い立って、或る外国語を新たに習い始めたのであるが、その成果は、それに費やした労力に比して、誠に惨憺たるものであった。)

 地球規模での人的な交流、物流、通信・情報量等の増大を意味する限りでのglobalizationが、今後、ますます進展することが不可避な情勢であるとすれば、外国語が必要とされる度合いも、それに照応して増大するであろう。だが、このような技術的な要請のみが問題なのではない。昨今のグローバル化には、他の側面がある。それは、市場経済的な価値観が、世界の隅々にまで、いわば爆発的に浸透しつつある、という一面である。しかし、私は、この方向性は、いずれその限界に突き当たらざるをえない、と考えている。したがって、多元的な価値観や多様な文化が平和的に共存する世界こそが望ましい、とする立場を取るならば、多くの言語を相互に理解し合う関係は、将来、いよいよ重要となると思うのである。つまり、言語は、民族や文化を規定する、中核的なファクターの一つであり、他言語の修得は、異文化の理解そのものだからである。多元的な価値観や多様な文化が少しの違和感もなく共存する所、それが本来の大学というものであろう。

 一方、読書の在り方については、古来、多くの先達によって言い古されてきたように、私もまた、まずは、古典と称される文献―当面の研究テーマと関連する―から読み始めることを基本に据えるであろう。しかも、そのさい、原典主義を旨とするであろう。ここで古典とは、すでに社会的な評価が定まった学的巨人の著作、という含みであり、原典主義とは、解説本に依らず、終始著者自身の言葉と向き合う、というほどの意味である。それらの古典は、総じて、その時々の時代が提起している問題性の的確な把握、対象の本質に迫る分析力、体系的な叙述等の点で、凡百の時流におもねる諸論からは超然としている。無論、いかに卓越した古典的著作といえども、それが書かれた時代の制約からは完全に自由たりえないであろう。だが、そうした古典の意義と限界をかかるものとして把握するためには、そう判断する根拠・基準が読む者に明確になっていなければならない、という難題が伴う。これは学問に内在する矛盾であり、この矛盾は、基本的には、勉学の進展のなかで自ら解決する以外にはありえない性質のものである。こうした自助努力を補完する制度的枠組みが、大学の講義や演習である、と考えていいであろう。いささか古いタイプの大学像であることは充分承知の上であるが。

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