◇赤道へ −私の機縁−
理学研究科地震・噴火予知研究観測センター教授 浜口博之
 ニイラゴンゴは、標高3、470mの活火山で、アフリカ大陸中央部の赤道下にある。その山頂には、火口の中に溶岩の湖(Lava Lake)が継続的に存在し、地球上でも特異な噴火様式を示す場所である。この様な火山が、なぜ大陸の真ん中にあり、マグマがどのようにして地球の深部から供給されているか、まだ説明が与えられていない。

 上の文章は、ヘミングウェイの小説「キリマンジャロの雪」の冒頭の名句を真似して表現した、私の火山研究の現場と問題意識である。副題に掲げた機縁は、もともと仏教の言葉で機会因縁の略である。辞典を引くと「末長く続くことの起るきっかけ」と訳されている。

 私は、昭和33年に理学部に入学した。物理学者で随筆家でもある寺田寅彦と、昭和21年に起きた南海道地震の津波体験を語ってくれた両親の話などに影響を受け、地球物理学を勉強しようと思って仙台にきた。当時の教養部は西多賀の富沢分校(現在の理学研究科附属原子核理学研究施設のある所)にあった。2年目に、現在の川内北キャンパスの前身の川内分校に移転した。米軍のキャンプ地跡の建物を教室に改造したもので、すべてが真白いペンキで塗られやや異質な空間だと感じた。教養部の講義では、ノーベル賞受賞者の書いた教科書に新鮮さを感じたが、それ以外あまり記憶に残っていない。それに反して、塩釜での部活の合宿など足や体を動かした体験は今でも鮮明に思い出される。部活を通して、集団の一員としていろいろな基礎訓練をなしえたことは有益であった。講義数も今ほど多くなかったと記憶する。教養部時代は、まだ周囲の時間もゆっくりと流れており、一般教養として本に親しむことができた。

 片平キャンパスの北門に通じる東一番丁の古本屋で手に入れた和辻哲郎の「鎖国」には大きな衝撃を受けた。日本はなぜ戦争に負けたかとの和辻の設問は、太平洋戦争の末期の幼年時に、疎開した田舎から山越に見た空襲の火映と重なり合った。14世紀の大航海時代のポルトガル人などの西方への視野拡大と、当時の日本の近代化への歴史を概観しつつ、「日本に欠けていたのは航海者ヘンリー王子の精神であった。そのほかにさほど多くのものが欠けていたのではない」という意表を突く結論の一つに奇妙な感銘を受けた記憶がある。歴史的な背景知識も少なく、すらすらと読める本ではなかったが、時間にまかせて何とか最後まで読んだ。「広い世界」を知ることの重要性に最初に出会った本であった。また、その後、折に触れて読み返した本でもある。

 専門課程では、地球物理学科に在籍し、地震学について鈴木次郎教授から指導を受けた。昭和37年に助手になって数年後、プレートテクトニクスという新しい仮説が提案され、地球を理解するパラダイムの変換点に遭遇した。昨今は、プレートテクトニクスは覚えるものとして講義されているが、当時は、仮説の中身が正しいか否かではなく、信ずるか否かという時代の風を感じつつ輪読をした。この仮説の基礎となった1910年刊行のウェーゲナーの「大陸と海洋の起源−大陸移動説」も繰り返し読んだ。アフリ力と南米の海岸線の奇妙な一致を手がかりに、大陸が水平に移動したとの仮説とその実証に向けた緻密な考察に、学問としての面白さを感じた。和辻哲郎の「鎖国」とウェーゲナーの本の間には、内容的に何の関わりもないが、2つの書物に現れたアフリカ大陸の海岸線が、私の中で奇妙な結合をしたのを思い出す。

 私のアフリカ行きは、全くの偶然に訪れた。ウェーゲナーの本に出会って6年後の1971年に、コンゴ民主共和国の研究所に地震・火山の研究指導に一緒に行かないかと高木章雄先生(名誉教授)から声を掛けて頂いた。自分の中に蓄積されていた情報と一種の共鳴現象が起こり、何の迷いもなくコンゴに同行した。和辻哲郎やウェーゲナーの本に出会っていなかったら、私のアフリカ行きはなかったであろう。

 当時のフィールドノートには、次のような印象が記されている。「目指す赤道直下のアフリカ中央部への旅は、一種の未知なるものへの好奇心と一抹の不安の重なる長い旅であった。丸木の柱にトタン板を敷いただけの空港から、研究所までの10kmの道程は、行けども行けども道路脇にバナナ畑が展開するだけで、研究所がほんとうにこの先にあるだろうかという風景であった」。イルサックと呼称される中央アフリカ科学研究所は、東アフリカ地溝帯という巨大な地球の割れ目の中の緩やかな斜面にあった。ここには、アフリカ特有の自然現象研究のために、ドイツ、フランス、ベルギー、イギリスなどから、「広い世界」を求めて研究者が来ていた。水中の炭酸ガス濃度が高くて魚が全く住めない水深500mの湖とか、山頂火口に高温の溶けた溶岩が沸騰し、夜間には真っ赤な火映が見える火山など、日本ではその存在すら想像しえなかった特異な自然が目の前にあった。

 地震観測点の見回りの途中、何度か赤道を自動車で横断する機会があった。その度に、ここが赤道という目印の看板のところで停車し、南半球から北半球へ歩いて渡った。赤道を陸路で歩けるところが地球上では以外に少ないことは、後に地図をみて分かった。以来、これまで20回以上、アフリカの地を踏み、ニイラゴンゴやニアムラギラ火山で野外調査・観測を行った。

 アフリカでは、しばしば思いもしない事に遭遇した。1994年4月、ニイラゴンゴ火山の活動の活発化とほぼ同時期に、ルワンダ国内の民族間の紛争が激化し、100万人というおびただしい難民が、国境を越えてコンゴ国内に流入した。噴火するかもしれない危険な火山の麓に、30万人規模の難民キャンプが3つも設置された。そこは人口が極度に集中し災害ポテンシャルが高く、火山の脅威にさらされていた。難民問題は、そのほとんどが国内問題に原因があるといわれるが、国際社会を不安定にするもっとも今日的で複雑な問題のひとつである。自然災害の素因としての火山の噴火現象と難民流入という社会現象が、同じ場所で同時に進行する現場に立会うことになった。UNHCRや各国のNGO、PKOの方々など多数の国籍を有する人々と共同して難民キャンプの火山防災に努力したことも貴重な経験であった。

 このような援助の現場では、多くの若い外国人の男女が働いていたが、わが国からの人々はほとんど見かけなかった。日本製の車をはじめとする援助物資や資金は、わが国からたくさん供与されているのに、それを現場で使うのは皆外国の人々であった。

 わが国は、まだ鎖国状態に近いのではないかと当時の錯覚が、私の脳裏に残滓のように残っている。

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