◇個の体験を通した学問へのモチベーション
情報科学研究科教授 樋口龍雄
 大学教育研究センター長としての星宮先生から、センター広報(曙光)に退官(予定)教官による学問論を掲載したいので書きなさいとのお話を頂いた。普遍的な学問論はいささか荷が重くその不明を恥じるばかりであります。また、普遍的な学問論はそれぞれの立場で権威のある方々がこれまで多数述べてもおられます。そこで、自分の個の体験を通して、個の体験こそは「自分にとって学問のより根源的と思われるところ」を形成しているのではないかとの思いを述べることに致します。これも「現場主義」を標傍する本学ゆえにお許しいただけるものと思います。その際、より根源的な事柄に触れるためには、どうしても話題が個人的になってしまうことをあらかじめお断りしておきます。

 私が中学生の頃父からよく北御門良夫氏の話を聞かされました。氏は昭和十二年、本学機械工学科を卒業し某会社に就職しました。ある日北御門良夫氏は父を訪れ、「工場では機関銃を作っているが、どうしても武器製造に直接加担したくない」との理由からしばらく研究室において欲しいとの話でした。本人にとって当時の状況からすれば、そのことは弾圧を受けるかも知れず、経済的にも大変苦しくなることを意味します。父は研究室に迎え、氏は戦後国立大学の教授を務め、退官後は郷里の熊本で余生を過ごしました。そのような門下生北御門氏の生き方に対して、生前父は大変敬愛しておりました。

 そのおり、良夫氏には面白い弟がおられることも聞きました。青年時東京大学の英文科に進むが授業に飽きたらず退学、死を覚悟して徴兵拒否を貫きました。いまは熊本の山奥で晴耕雨読の生活を送り、農民のように、いや農民として生きていると。それを語るときの父は、何か遠くを見ているようでもありました。本当は門下生でありながらそのような生き方ができる二人の兄弟がなかばうらやましく思っているだろうことは、中学生の私にもすぐにわかりました。

 その頃私の兄は大学生で、親友と二人ザックを背負い九州の山々を数週間かけて踏破する計画を立てていました。その行程にはもちろん山登り姿で北御門氏を訪ねることが含まれておりました。当時氏は今のように名が知られているわけでもなく、真から農民でありました。農耕のかたわらトルストイ研究に専念しつつ、絶対的非暴力の思想と立場をとっていました。北御門二郎氏と兄との出会いはどのようなものであったか、ことさら聞いてはおりませんが、後の兄の生き方に何らかの影響を与えたのではないかと私は想像しております。一方私はといえばうらやましくもありましたが、兄とは異なる道を歩むべきであろうと思っていたこともあり、本学教養部学生のとき九州ではなく、北海道の山々を踏破しました。

 北御門二郎氏のことは、それから四十年とりたてて私の身辺では話題にはなっておりませんでした。というよりは氏の生き方についてことさら家族に話をしておりませんでした。北御門氏とは、時代も置かれた環境も違います。表面だけ真似されても困るという意識が私にはありました。ところが今は社会人になった子供が、何かのことで北御門二郎氏の名を挙げました。たまたま東京の書店で、ある出版社から出されている氏のトルストイ翻訳を見つけ出し大変気に入ったという。これまでの翻訳家によるものとは異なる感動があったという。私がこれまでその名を挙げたことがないにもかかわらず、北御門氏が共通な話題になったことに内心驚きもしましたが、これを機会に初めて北御門氏とのこれまでの縁を語りました。

 その後、NHK教育テレビスペシャル「イワンの国のものがたり」として全国放映され、熊本の山奥が知られるようになりました。北御門二郎と澤地久枝との対話形式の本「トルストイの涙」エミール社も出版されました。いつまでも「晴耕雨読する一人の農業者」であって欲しいと切に願うものであります。

 話はこれだけであります。しかし、中学生の頃から今日に至るまで、私は氏のことがずっと気になっていたことは間違いありません。北御門二郎氏と私には直接的な交流、関係はありませんが、冒頭述べました「自分にとって学問のより根源的なところ」をかなり形作っているような気がします。かつて矢内原忠雄は、師の内村鑑三との関係について「先生に個人的に親しく接近した弟子は、先生との間に思想や感情の衝突を来した者が少なくない。」ことにふれ、自分は「聖書の真理を学ぶ師弟の公的関係に限定する態度を取り」の立場を貫いたことを記しております。この例を見るまでもなく、必ずしも個人的関係が緊密であるのがよいかどうかは、この際問題ではありません。

 学問を志すとき、画一的ではない個の体験こそが他人とは異なるパワーを生み、学問へのモチベーションになるのではないでしょうか。個こそが学問を生み出します。「自分にとって学問のより根源的なところ」はおそらくマグマのようにどろどろしたものかもしれません。そのためには青年期の人との出会いが大きいと思います。その頃私はわが道をいくタイプのおじいさんとか、峠の一軒屋の茶店のおばあさんとか、なにかそんな味のある人を尋ね求め、出入りをしていました。これらの出会いがるつぼで溶かすようにしてマグマになり現在まで学問研究をする活力になっているような気がします。

 本学は多士済々の教官陣を誇っており体系的な講義やさまざまな工夫がなされよく整備されています。しかし、若い学生と教官との個の体験はほとんどみられません。東北大学という大きな組織のなかに小振りな「塾」のようなものを内包し、他の人とは違った画一的ではない個の体験をさせることはできないものでしょうか。どこの学部に属しているかには関係なく、希望する学生が個の立場で自発的に教官を尋ねたりしやすいシステムを作ることはできないでしょうか。現状では学生の自覚を期待するのでは遅すぎます。大変とは思いますが、時代に合った個の体験の仕組みが俟たれます。

前ページ

次ページ