◇ユゴー『笑う男』・監房の半日など
東北大学名誉教授(法学部)莊子邦雄(1984年4月定年退官)
 今年は、ヴィクトル・ユゴー(1802年−1885年)生誕200年にあたるということで、フランス各地で総計400を超える記念事業が1年にわたり 繰り広げられているという。このようにフランスで破格の扱いを受けるのは、他でもない、ユゴーが、『レ・ミゼラブル』(1862年)、『死刑囚最後の日』(1829年) などを通じて「憐れなる人々」に降り注いだ愛情、また、この愛情の発露としての様々な積極的社会活動(たとえば、1849年と1869年の国際平和会議で議長を務め、 基本的人権尊重の基礎である平和実現のため「ヨーロッパ合衆国」の理念をかかげた)を通じて、ひとびとの心底からの追慕を受けたためであろう。このユゴーが 執筆した小説のなかに『笑ふ人』(1869年。ユーゴー全集、復刻版、第3巻、平成4年)という、いかにもユゴーらしい、「人間愛」に満ちた、しかも、イギリス 「貴族政治」に対する痛烈な批判を込めた小説があると加藤周一は、このユゴーの小説を映画化した、無声映画の傑作『笑う男』(1928年、パウル・レニ監督、 コンラート・ファイト主演)の復元版の上映に際して「夕陽妄語」(1999年5月22日「朝日新聞」13版)において次のように言う。「映画の主人公は、ジェイムス2世の 宮廷の陰謀にまきこまれて処刑された貴族の長男で、幼時に口を大きく割かれ、絶えず笑っているかのような容貌をもって成長し、場末の道化師の一座に加わって、 人気を博する」。「時が経ち、・・・主人公の血統が明らかにされて、アン王女は彼を貴族に列し、・・・貴族の女との結婚を命じる」。だが、主人公は、 「王は私を道化にした。女王は私を貴族にした。しかし神は、そのすべてに先立って、私を人間にしたのだ」と叫び、盲目の娘との恋を貫く。

 ユゴー『笑う男』の「人間」宣言で思いだすのは、旧制高等学校文科乙類(ドイツ語を第一外国語)3年(現在の大学学部2年あたり)の2学期から約70日 欠席し、ゲーテ、シラー、スピノザなどを通して「人間の自覚」という論文を執筆、昭和16年12月31日脱稿、翌17年6月公刊されたことどもである。そこでは、一切の 権威をかなぐり捨て、「人間」として生きるべきであるということを情熱的に力説した。そして、この原稿執筆の余韻覚めやらぬ昭和17年2月、旧制高校卒業直前の 学期試験で、東大経済学部安井琢磨助教授(のちに文化勲章受章)の講義した「経済原論」につき「自由に何を書いてもよい」というので、ワルラスは勉強して 行ったが急に「ファウストの経済観」という題で答案を提出したところ、「これは経済の答案ではない」ということで百点中十点をつけられ、約70日欠席と合わせて 教官会議で「落第」が問題となった。しかし、総合点の成績が文科乙類37名の中位にあったため「落第」を見合わせ、二月某日父兄同伴で出頭せよという通知を受け、 父に知らせることなく一人で出頭したところ、「直ちに父親を呼べ」と言われ、飛んできた父親ともども、約10名の教官列立のもと、校長より説教を受け、 やっと卒業した(3名落第。文科乙類卒業生34名のうち、4名戦死)

 しかし、「人間の自覚」の強烈な余波は、なおも続く。17年4月中頃、京大文学部ドイツ文学科入学のため、吉田山の麓の学生寮で南京虫に刺されるなどして 入学式を待機、入学式に臨んだが、式辞に強烈な疑問を抱くなどして入学を取りやめたのである(当時、大山定一ドイツ文学科講師には憧れを抱いていた。ツイ最近、 「故大山定一教授をしのぶ」という献詞を「幻の恩師」に捧げた、拙著『近代刑法思想史研究』1994年)。だが、学生の身分を喪失すると直ちに「徴兵」となるため、 補欠募集をしていた九州大学の入学試験を受けて九州大学の法科に入学。しかし、昭和18年12月1日、文科系学生全員の「徴兵」猶予特権停止で「学徒出陣」。 私も約2年間、「兵役」に服し、敗戦と共に九州大学に戻り刑法の研究に従事した。

 昭和22年、約3ヵ月間、刑務所長の了解を得て、受刑者の舎房に自由自在に出入りし、受刑者と親しく接触した。真夏の午後、老受刑者が牢名主然として控える、 広い雑居房に入って行き、暫らく話をした。間もなく眠くなったので、「昼寝をさせてくれ」と言って、約2時間程度、舎房内で昼寝をした。起きたところ、 老受刑者が「今晩、泊って行け」と言う。当時、占領軍は、看守に対して受刑者の人権を尊重しろという厳命をくだしていたため、看守が全般的に萎縮していた反面、 受刑者は「自治委員」を選出して「受刑者自治」を部分的に実現するなど、刑務所は極めて特殊な雰囲気に包まれていた(刑務所内の「工場」で、真夏の昼下り、 両腕のない受刑者が上半身裸で肩に手拭いを掛け、「自治委員」として号令を掛けていた姿をありありと思い起こす)。このような刑務所内の情勢のもとにおいて、 しかも、刑務所関係者が、わたくしが何所に居るかも把握していない状況のもとで、泊るだけの勇気は湧かなかった。そこで、「泊るつもりはない」と言ったところ、 「それでは、歓迎会を開いてやる」と言う。当時、受刑者の舎房の鍵は自由自在であったらしい。各舎房から多数の受刑者が集まり、私のために楽しい歓迎会を 開いてくれた。ひとの善さそうな常習窃盗受刑者が、ドジョウすくいを踊った情景をありありと思い出すと同時に、老受刑者の親分が私を「人間」として扱って くれたことに、今でも深い感慨を覚える。

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