◇海を生かし海に生きる―私の教育・研究論―
元農学研究科教授  森 勝義
 私が好んで使う言葉のひとつに「海を生かし、海に生きる」がある。「海を生かす」には二通りの意味があり、ひとつは海を殺さぬこと、つまり海洋環境を破壊しないように守ることである。もうひとつは、海を正しく活用することである。両方を合わせて言うと、海の環境をできるだけ良い状態に保ちながら、海洋の生物生産の余剰分をいただき、かつ幾らかでも生産を人為的に高める手段を講じることによって得ることができた海からの贈り物をありがたく頂戴することが「海を生かす」ことである。その結果、人類が生存できるわけだから、「海に生きる」ということになる。多くの食料を海に依存している人類にとって、今後もこの地球で生存し続けるためには海を積極的かつ主体的に活用することを余儀なくされている。しかし、海は無限に開発を許すほど寛大ではないし、人類が生き残るためには自然と調和しなければならない以上、「海を生かし、海に生きる」は、正しくは「人は海に生かされている」と言い換えるべきなのかもしれない。海を利用させて頂いているという謙虚な気持を次代を担う若者に植え付けるような教育が必要であり、その場合に大切なことは、我々が若かりし頃に植え付けられた開発至上主義、成長促進一本槍の精神からまだ脱却できないままで教育してはならないということである。

 まず、私の教育論から話しを始めたいと思う。国際的にも高い評価を受けている東北大学の理念の一つである「研究第一主義」は、自助努力の必要性を説いたもので、まさに教育の真の在り方を示している。自助努力する苦しみの中からこそ、独創的発想が生まれ、優れた研究業績をあげることにつながるのである。この自助努刀の重要さを学生に自然に植え付けることが東北大学の教育の基本であり、そういう教育環境が本学には間違いなく備わっている。しかしながら、いくら優れた教育環境であっても、教育を受ける側である学生が能動的にその環境を活用して学び取るという前向きの姿勢を持たなければ、真の教育効果は決してあがらない。

 真の教育効果は教える側の人間の資質によって違ってくることもまた重視されなければならない。私自身の反省を込め、この点について若干言及したい。まず、教師は権威を振りかざしてはいけない。学生の考えをじっくりと聞いて、学生の興味と意欲を引き出してやることこそ、教師の最大の仕事である。多くの場合、教師の権威の実体はレッテルにすぎないことを教師は自覚していなければならない。また、教えることは二度習うことであり、それ相当の準備が必要である。さらに、学生からも学び取るという謙虚さを持っているべきである。最後に、指導とは、教師と学生がともに夢や希望を語り合うことであり、そのためには教師と学生との間に愛情と信頼がなけれぱならない。

 教師もまた、生のある限り学生であり続けるべきであろう。辛辣な風刺と機知に富む著述で有名なイギリス近代演劇の確立者、ジョージ・バーナード・ショーは次の言葉を残している。「人間が賢くなるのは、経験によるのではなく、経験に対処する能力に応じてである。」と。学生は、教師が「経験に対処する能力」を持つ人間かどうかを敏感にかぎとっているのである。教師は、常にこの能力の向上のために努力し続けなければならないということである。

 次に、私の研究論について述べたい。教育論の冒頭でも触れたように、東北大学の理念の一つである「研究第一主義」は、自助努力の必要性を説いたものであり、他人によって設定された研究課題を解決しようとしても、多くの場合大した成果は期待できない。自らが自発的かつ自主的に選択した課題に取り組むからこそ、その課題への解決に対する確固とした覚悟と確信が生まれ、独創的発想に基づいた学問的創造が成就するのである。

 では、真の独創性はどこから、いかにして生まれるのか。それは、水産学分野に限ると、海というフィールドを日常的によく観察し調査する習慣を身につけており、決して先輩研究者や指導教官から与えられた知識を鵜呑みにしないという資質を備えた若手研究者から生まれることが多い。そして、そのような若手研究者が自ら主体的に選択した研究プログラムの路線上に、たまたま訪れる偶然性から生まれるのである。いわば、独創的発想に基づいた学問的創造は、すでに準備された頭脳にだけ訪れるのであり、偶然性を呼び込むためには自助努力する苦しみが必要なのである。この自助努力は、できるだけ他者に頼らずに自分の課題に徹底的に執着し続けることにほかならない。

 以上のような資質をもつ若手研究者は、往々にして指導教官や先輩研究者からは傲慢とか頑固であるとして嫌われがちであるが、このような風土は学問的創造にとって最も大きなマイナスとなる。我々教師が真の研究者を育成しようと思うなら、研究者を目指す若者の倣慢さや頑固さに耐えるという学問的寛容さをもたねばならない。

 自分が選んだ研究プログラムの路線上に偶然性を呼び込む上で決定的な意義をもつものの第一は、「観る」ことである。倫理学者で文化勲章受賞者の和辻哲郎はその著書「風土」の中で次のように述べている。「『観る』とはすでに一定しているものを映すことではない。無限に新しいものを見いだして行くことである。」と。さらに次のように続く。「だから、観ることは直ちに創造に連なる。しかし、そのためには、まず、純粋に観る立場に立ち得なくてはならない。」「観る」とは、単に網膜に物を映じさせることではなく、そこから何らかの精神作用を発動させることである。その意味で、「観る」ことは創造的な精神活動である。それだけに、正しく観るためには、現象に対して素直に謙虚に、バイアス(bias)を捨てて、正しく知覚することから始めなければならない。「絶対に偏見を持たず、事実の示すところに素直についていく習慣」を身につければ、「数多くの事実から、どれが本質的な事柄で、どれが付随的な事柄かを見分ける眼」を養うことができるのである。したがって、教師や先達は、研究のテーマやプログラムを選ぶ上での若者の傲慢さや頑固さに耐えねばならないが、若者に事象を素直に観る習慣を身につけさせることに対して決して寛容であってはならない。不十分な資料や情報で早まった仮説を作るようでは、研究者として、はじめから失格だからである。

 以上、私の教育・研究論の一端について述べた。21世紀は、人類にとって重大なターニングポイントと位置づけられており、世界的には人口爆発による食糧危機が強く懸念されている。その意味で、今ほど、「海を生かし、海に生きる」ための学問に真摯かつ積極的に取り組む若人の増加が強く求められる時代はない。

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