◇根源知の追究―「よりよく生きること」を目指して― | ||
元国際文化研究科教授 大友 義勝 | ||
ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』の中にシノペのディオゲネスの言行が記されている。「ある時彼が、『ああ、人間はいないか』と叫んだので、皆が集まっていくと、彼はこう言いながら杖を振りかざして彼らに襲いかかった。『ぼくの呼んだのは人間だ、ごろつきどもなんぞではない』」また、「白昼ランプをあかあかとともして、言うことに、『おれは人間を探しているのだ』とある。ちょっと人を食った言い方をしているが、ディオゲネスの言わんとするところは、つまるところ、人間は、ただ人間の姿をしているだけでは、人間とは言えない、言い換えれば、人間とは如何なる存在であるか、人間のイデアを探究することによってこそ初めて人間になれるということであろう。 ソクラテスは、『ソクラテスの弁明』の中で「魂の探究なき生活は人間にとって生甲斐なきものである」(“the unexamined life is not worth living”)と述べ、自分の魂をよくあるようにと気遣うことを説いている。ソクラテスは、問いを発するだけで答えを提示しない、すなわち、人間はこうあるべきであると具体的に言わないと非難されるが、この場合、言わないのではなく、言えないのである。このような問いには誰も答えられず、答えは各人が探究して自分なりの答えを見出す他ないのである。そしてこの場合、このような問いを発して各人に人間のイデアの追究に向かわせ始めることにこそ最大の意味があると言える。 現実の社会生活において人は、何を行ったか、どのような成果を納めたかが問われ、それによって評価されがちである。しかし、人生においては結果よりもその結果に至る過程の方が重要であり、意味があるように思われる。 今から約20年近く前、1983年11月2日にフランスの哲学者ジャック・デリダが東北大学に来て文学部文教大講義室で講演したことがある。立って聞いている人が何人もいる程の盛況であった。デリダは、「哲学を教えることは―教師・芸術家・国家―」という演題で、「根源知を追究することが大学の使命である。根源知というのはイデーとしての知であって、具体的な形をとれば、それは根源知とは言えない。具体的な形をとった知は一時的なもので、ある時点での、その時までに到達した知の姿ということになる。それ故に根源知の追究は無限に続くことになる」という越旨の話をされた。更に、デリダは、「私の哲学上の狙いは、伝統的に形成されて来た諸概念の総体を疑問符の内へ投入し、ずらし、移し変えるということだ。そのためには当然、我々の言説を支えて来たすべての公理系を聞い直さねばならず、それに伴う歪みが言語の内で難しさとして現れて来ると思う」と話された。我々は、往々にして無意識の中に既成の物の見方に支配されがちであるが、そのような既成の見方に囚われずに、不断に物事の本質を追究していく、その結果新しい発見も生まれて来ることになる。分野により、個人により、対象は異なるが、そのような不断に根源知の追究を行っている場が大学なのであり、そこに大学のレーゾン・デートルがあると言える。TIMEは、そのように根源知を追究することによって、相対性理論を打ち出したアルバート・アインシュタインを「20世紀の人」に選んでいる。 プラトンは、教育について、「教育ということで私は、人をして完璧な市民であることを熱心に願望させ、そして人に如何に公正に統治し、かつ従うかを教える、青年期からの優秀さを鍛える訓練を意味している。これこそ教育の名に値する唯一の教育である。富や身体的力を手に入れることを目指す、あのもう一種類の訓練は、教育と呼ばれるに全く値しない」と述べている。要するに、人間精神の陶冶を目指すのが、真の教育であるということである。我々は、とかく目先の利益に支配されがちであるが、望ましい社会を建設・維持・発展させて行くためには、一市民として公正に物事を判断し、行動出来る、優れた人間を養成することが不可欠である。 では、そのような優れた人間はどのようにすれば養成されるのであろうか。偉大な精神を養成する方法として、古代ギリシャ・ローマの言語と文学に造詣の深い、ギルバート・ハイエットが二つの方法を提示している。その一つは、精神に「絶えず挑戦する機会と刺激を与える」方法である。精神に難題を提示して考えさせるのである。二つ目は、「他の優れた精神と絶えず交わらせる」方法である。ハイエットは「偉大さへ向かう最良の道は、偉大なるものと交わることである」と言い、プラトンの著作を読み、その議論に応え、彼の弟子にして批評家になることを勧めている。勿論、我々は、成長して行く過程で、体験を通して自ずから色々なことを学習して行く。そしてそれはそれで貴重なことではあるが、そこに留まっているだけでは不十分であり、時には小さな自我に囚われかねない。自己の精神を陶冶するためには、ハイエットの説くように、過去・現在・未来の偉大な精神の持ち主と交わるにしくものはない。 このような趣旨を実現するために、アメリカで生まれたのが、グレート・ブックス運動である。この運動は西洋の名著を通して人間性の涵養を計ろうとするもので、J.アースキンによって始められ、1929年に30歳の若さでシカゴ大学学長になったR.M.ハッチンズやM.J.モーティマーによって推進された。R.M.ハッチンズは、「自由学芸(liberal arts)は、文字通り、自由に関する学芸である。自由になるためには、人間は自分が受け継いだところの、また自分がその中に生きているところの伝統を理解しなければならない。名著とは、自由学芸を通して、われわれの伝統に対する明晰、かつ肝要な理解を与えてくれるものをいう。名著を通して理解された自由学芸、また、自由学芸を通して理解された名著による教育こそ、現にわれわれの享受している伝統の認識を可能にする唯一の道である。つまるところ学生に自由人となるための教養を与えるには、自由学芸と名著の分野で教育しなければならない」と言っている。そして具体的に「西洋のグレート・ブックスを十年間にどう読むか」というリストも提示されている。東西の名著を繙くことによって過去・現在・未来の偉大な精神に出会い、対話を交わすことは無上の楽しみであり、喜びである。 しかし、ここで肝心なことは、我々の心が学ぶ状態にあるかどうかということである。学ぶ状態になければ、どんな名講義を聞いても、何の得るところもないであろう。逆に学ぶ状態にあれば、森羅万象から学び取り、路傍の名もない草花を見ても宇宙の神秘に思いを馳せることになろう。イギリス・ロマン派の詩人の一人であるS.T.コウルリッジは、我々の眼前にはこの世界の美しさや驚異が無尽蔵にあるのに、「馴染みの膜と利己的気遣いのせいで、我々は目があっても見えず、耳があっても聞こえず、心があっても感じることも理解することもない」と言っている。我々がよりよく生きるかどうかは、我々が如何に精神を自由に保ち、人間のイデアをどこまで深く追究するかにかかっている。 |
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