◇世界最先端の研究への糸口
元加齢医学研究所教授  仁田 新一
 私の学問への参画らしきものは、本学の医学部入学後の3年目から始まった。そのきっかけは、運動部の仲間によって作られたものであっ
た。実はその年の春の健康診断で初めて心臓に過剰雑音(正常な心臓では聞かれない音)が入ることか専門医に指摘された。一般日常生活には支障がないとの診断であったが、全学の漕艇部に属していた身とすれば、とても不安な毎日に明け暮れた。いわゆる“row out”(全エネルギーを使い切って漕ぎ切ることとでも表現すれば良いのか?)を是とする部の精神からすれば、練習中も競技中も心雑音が頭から離れずにいた。当時のボート部はローマオリンピック代表として出場した直後で、名実ともにその実力は日本のトップであった。私は高校時代の3年間をボート部のレギュラーで過ごした経験からも即戦力として組み入れられたようであった。従ってもし途中で故障でも生じれば部に大きな迷惑がかかるし、一方このままの状態では自分も参ってしまうと考えると、何事にも身が入らず、迷いに迷った末に一線から退くことを決意した。

 そのシーズンは、コーチが船外から、ボートに伴走しながら指導する際に使用する小さなモーターボードを操縦する係を担当したが、仲間が一生懸命漕いでいるのを見るのが辛く、つい足が遠のいた。目前の目標を失い文字通りフラフラしていた。この状況が当時のボート部長の石田名香雄先生(元本学総長)の耳に入り、「それならば学問をしろ」と言われて、半ば強制的に、大学病院の中央検査部の心電図室というところに連れていかれた。その室長は医者ではなく、電気工学畑出身の心臓電気生理学の大家であり、自ら“空間ベクトル心電計”を発明した直後で、研究室ではその改良と臨床実験が遅くまで続いていた。そのチームは医学部は勿論、工学部の先生、ドクターコースの学生、それに町工場の技術者らの混成で昼夜を問わずに何とも活気があった。室長が医者でなかったせいで、空間ベクトルの心電図理論を医学的に解釈する役割が私に回ってきた。しかし、それに答えるには全く不充分な解剖学の知識しか身についていなかったので、英語力のなさをのろいながら、専門書あさりをする必要に迫られ、検査室に寝泊りしながらその解答を苦労して探しては白熱した討論に加わった。

 心臓は、秒間に1〜3回周期的に収縮と拡張を繰り返して血液を身体に送り込む働きをするが、その時に心臓内に発生する電気的な変化を、当時は時間とともに表示するのが心電図(スカラー心電図という)であり、これは現代医学でも重要な診断法の一つである。またベクトル心電図は、本来ならぱ心臓の3次元的な電気的変化を、当時は3次元表示法が存在しなかったため、便宜的にX,Y,Z面に投影した心周期のループとして、2次元的な表示でとらえていた。しかしこの解釈にあたっては、実際的には専門家がX,Y,Z面を頭の中で空間に合成し直して判断していたのであり、実際的にはごく専門家に許された特権的な領域であった。このベクトル心電図を、X,Y,Z軸上にそれぞれハーフミラーをつけて、空間上に合成したひとつのループとして表示するのが発明された空間ベクトル心電計であり、それが空間に造形されて3次元的なループが輝くのを見た時はまるで、オーロラを初めて見るのがこんな感激を味わうのだろうと思うほど感動した。この研究に少しでも関わっていることを考えると、次第にこのループがにじんで見えたのを刻明に覚えている。このループは、世界で我々のみが見ることが出来るのだと思うとその身の幸せを感じ、全員がひときわ饒舌になっていた。この時のメンバー1人1人の会話と顔とが今でもまぶたに浮かんで来る。これらの研究成果の集大成の発表会が学部6年の時に東京で行われた国際ME学会で行われた。少し英語が話せるということで学術展示会場の説明役が私の仕事となった。

 最初に質問をしてきたのは、循環器系の専門の女医さんであった。長身を純白のスーツで包んだとてもきれいな米語で語りかけてきた。とても解り易く話してくれて自分でもびっくりするくらい英語が良く聞けたし、説明をすることが出来た。もし、これが今でも苦手とするゴモゴモと発音する男性だったらと思うとゾッとする。いづれにしても医学部の学生が国際学会でその道の世界的な専門家を相手に会話を交わす機会を得たのであった。

 これらの経験が心臓を専門とするキッカケを作ってくれたのだし、専門書を読み漁ることのたのしさ、未だ誰もが未経験な研究の世界へ没入した時の幸福感を味あわせてくれたのだった。

 卒業後は、心臓を内科的に専攻するか外科的にやるのかを選択するのみであったが、結局自分で診断した疾患を直接自分の目で確かめたいという思いが強く心臓外科を選んだ。入局後は既に工学的手法を少し身につけているのを見こんで下さった当時の助教授(現 堀内藤吾名誉教授)から「これからは人工心臓の時代だよ」と言われ、当時世界的に有名だった東京大学の渥美和彦教授を紹介された。何ら知識も無いままでは申し訳無いと思い、電子工学科の松尾正之教授のもとで増幅器の作り方から勉強し始めた。心臓血管外科の臨床との掛け持ちでおそらく大変迷惑をかけたのだろうが、お陰で電子工学が身近に感じられ、その後の研究活動に大いに役に立った。東大の医用電子研究施設へ挨拶に行き、始めて握美教授(当時39歳)にお会いし、動物実験を見せて頂いた。山羊に右心室、左心室用の二つの人工心臓が体外に設置されていたが、実験動物の生気は全く無く「中々うまく生きてくれない」とのことだった。その時自分でも思いがけずに強い口調で「一つの心臓でも生きないのになぜ二つなのですか」と大変失礼な質問が口をついて出てしまった。

 若い売出し中の教授には耐え難い一言だったと思うが、じっと耐えたのであろう。「ムッ」としていた。翌朝教授から呼び出され、これは仙台に帰されるなと覚悟を決めていたが、一言「君の言ったことは正しいよ。今から方針を変え、左心室の人工心臓から始めよう」とおっしゃってくれた。東北からきた卒業したての新米研究者の分不相応の意見を素直に取り入れてくれたのだった。この若い教授の公明正大な寛容さに包まれて、一年の約束がさらに半年滞在期間を延ばし、その間学会の発表、人工心臓の開発と寝食を忘れて実験に明け暮れた。歴史上名高い安田講堂事件も、身をもって体験した。東北大学に戻ってすぐに、一人しかいない人工心臓研究グループを作ってもらい、素晴らしい指導教官を得て東北大学型人工心臓の研究が始まった。この人工心臓は、後に部品も含めた初の純国産人工心臓として臨床応用され、海外にも渡って臨床応用された。

 私の場合は学生時代にボート部で得た友人、恩師の助言、そして飛び込んだ研究室での活動、医学部卒業後の東大での研究生活などの幸運が重なり、それか私の人工心臓の研究というライフワークとつながったわけである。このような教育が本学の全学生に実現できれば、在学中にノーベル賞級の研究が生まれたり、あるいはその糸口になったりする可能性があるのではないだろうか。本学としても少しずつこのような大学教育を考え、整備しつつあるので近い将来必ず実現するのを大いに期侍しているところである。

 また、学生諸君も本学の研究はそれぞれの分野で世界最先端の研究なので、学生のうちに少しでも早くその一端を覘き、もし許されるのなら、その一員となってみてはどうだろうか。せっかくの大学の生活なので自分の能力の独創性を是非試してほしいし、また、発見して欲しいものである。

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