◇正統の頑迷さがなければ異端のかがやきもない | ||
東北大学名誉教授、日本学士院会員 樋口 陽一 | ||
出身の学校はちがうがちょうど同年代の旧知のフランス文学者から、新刊の自著※を頂いた。高校から大学へかけての生活とそれをとりまく日本と世界の大状況の中で、ひとりの人間が自分自身をつくりあげてゆく様子が、さわやかに、またなまなましくえがかれている。著者をとりかこむ生活空間を横切ってゆく人びとが、実名で出てくる。著名人もいる(同時期を教室で過した大江健三郎さんや、野球部選手として神宮球場で対戦相手だった長嶋茂雄氏など)し、私の知らない名前もある。臨場感あふれるそのような筆法でこの短文も書きたいところだが、自分の責任だけで出す単行本とちがうこの欄の執筆者としては、残念ながら、そういう遠慮のない書き方はまた別の機会にしたい。ここでは、一般的なはなしになることを、学生諸君には我慢してほしい。 ところで、この小冊子のキーワードは「教養」だとお見うけしている。少くとも私はそう心得て、この文章を書いている。この言葉を、定義ふうに言いなおすことは私にはできないし、また、すべきでもないだろう。ただ、なんらかの「知」と、なんらかの「品性」と、もうひとつ、「ムダを承知で」いう三つの要素が、その中身だとはいえるとおもう。そして、そうである以上、物ごころついた頃から死ぬまでかけて、どれだけ身につくか、という性質のものだろう。そうだとしてもなお、一生のうちで、特にこやしを存分にとり入れるべき時期がある。むかしなら旧制高校の年代だったろうし、旧制から新制へと移る時期だった私たちのころは、高校から大学にかけてだった、ということになる。今でもそれは変らないのではないだろうか。ゼミに入ってくる学生たちの中で、例えば私の書いた一般むけの書物(新書版など)を高校のときに読むという「ムダ」をしてきたというのが、結構何人かいる。本来の仕事の時間の合間を無理に作ってでもそういう本を書いてよかったな、だけどそれならもっと読んでほしい古典があったのにな、なぞ思うのはそういう時である。 さて、さきにあげた三つの項目のうち、「知」と「品性」の二つについては、それを正面から語らないこと自体が、「知」と「品性」というものだろう。とすれば、話はおのずと「ムダ」について、ということになる。 当面の役に立たないことに時間を―場合によっては多少のお金を―使う回り道を厭わないこと。とりわけ時間という点では、それは若い時だからこそできることではないだろうか。ときには背伸びも大いに必要である。旧制高校生たちは好んで「哲学」を「論」じたらしい。本当は誰もちゃんと読んだことのない哲学者について明け方まで議論するなんぞの逸話もある。自分に判らぬことを判らぬという言う率直さも大事だが、知らなくてはならないはずのことに対する敬意もまた、決して無意味ではない。背のびした分のメッキはいずれ剥げるが、何とか地金になったものが身につくのだ。戦国大名だって、本当に、能や香道や茶会を「判って」好きだったとはかぎらぬだろう。でも、その中から、話に伝わる伊達政宗のような第一級の文化人武将が出て来たのだから。 話は少々それたが、「判らぬもの」ヘの敬意がまったく無くなったら、文化そのものが成り立たなくなる。逆説的なことだが、そういう敬意があればこそ、権威や時として虚飾に護られた「判らぬもの」を破壊して新しいものを創造する力が、生まれてくる。いわば、本歌を共通に知っていればこそ、パロディが生きてくる。 そういう見方からすると、文教にかかわるお役所や学校自体が率先して「何でもやさしく判りやすく」という方向に持ってゆこうという風潮には異議あり、と言うほかない。1968年の前後、ひろく世界じゅうに、知を破壊する一連の動きがあった。パリからバークレイまで、フランクフルトから東京まで(北京にも一見似たようなことがあったが、これはここでの話とは文脈がちがう政治事件となった)。ギリシャ・ラテンという古典古代の築きあげた岩盤とキリスト教の強大な権威とがつくりあげた体系が頑強に立ちはだかっていたからこそ、西洋では、破壊が新しい何かを創りあげる。正統がなげれば、異端が出てきようもない。漱石や鴎外が学校教科書から姿を消して、今時分の若もの向きの作家たちがその代りに出てくるのでよいのか。せめて大学が、頑迷な正統の拠点となって異端を挑発する役割をひき受けなくてよいのか。 あえて歯ごたえのある「判らなそうな」ものにとり組むという回り道をしないで目先を追う暮し方を、仙台ことばで「コツケ」と侮るのが、私たちの少年時代だった。「コツケ」になるな、というのが若い人達への私の注文である。 そう書いたうえで一つ付け加えておきたい。一見「ムダ」に思えることが、のちのち、それぞれの仕事をする場面で生きてくるかもしれない(「かもしれない」どまりなのが、「ムダ」のゆえんなのだが)。漱石がロンドンで在外研究中に、一切の文学書を荷物の中に押し込んでしまったのは、「文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり」と悟ったからであった。そういう悟りのうえに、心理学や社会学を読み漁って書くことのできた『文学論』が、文学論としてどれだけ価値あるものなのかを私は知らない。それに、どちらにしても、彼はほどなく文学を「論」ずるのでなくみずから実作に没頭していった。そういうことはそれとして、漱石にとって、『文学論』を書くために「一切の文学書」がら離れるという回り道をすることが必要なのだった。そのうえでさらにもうひとつ。ここでの文脈とは別の意味で「血で血を洗う」ことを余儀なくされる専門人・職業人にとって、その痛みを洗う新鮮な水や豊醇な葡萄酒は、「ムダ」な迂回路の中でこそ貯えられるのである。 ※海老坂 武『<戦後>が若かった頃』(岩波書店.2002年12月刊) |
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