◇「近頃の学生」と教養教育 | ||
副総長(教育担当) 大西 仁 | ||
近頃の学生は 大学時代の友人に会うと、私が大学教師なので、「近頃の学生は、一流大学の学生でも、教養がないのではないか。」という批判をよく聞かされる。人間は歳をとってくると、昔を美化し、それに比べて近頃の事を低く見る傾向があるので、―「昔の富士山はあんなじゃなかった。」という落語の一節もある―聞き流せばいいような面もあるが、一方で、「近頃の学生は本を読まないよな。教養そのものに興味がないんだから、教養教育なんてやっても無駄だよ。」というような、簡単には斥けられないような意見が含まれていることもある。 そこで少しまじめに近頃の学生と教養について考えてみよう。但し、私は、教育学の専門家ではないので、これから論じる事は、極く狭い体験に基く印象論に過ぎない事を予めお断りしておきたい。 まず、「教養」の定義をしておこう。「教養」というのは多義的概念だが、単に個人が知識を備えているばかりでなく、個人が知識・素養を備えることによって、社会を何らかの意味で豊かにできるという場合に使われる言葉だろう。さらに、これからの若い人ということで、ここでは「社会」を「国際社会」としてみよう。そうすると、「教養がある」とは、国際社会に何らかの貢献をなし得るような知識・素養を有していること、と定義できることになる。 このように定義した上で、以下、近頃の学生は国際社会で貢献できるような教養を備えているのか、又、近頃の学生に教養教育を行うにはどうすればよいのかを見ていこう。 近頃の学生は国際社会に溶け込んでいるか 近年、外国の大学に出かけると、日本からの若い留学生を見かけることが多い。そこで感心するのは、彼等が他の学生達の中に違和感なく溶け込んでいるように見える点である。私が若い頃には、日本人留学生は、何となく周囲とチグハグな印象を与える事が多かった。それに比べて、近頃の日本人留学生は、身長をはじめとする体格が向上した上、身だしなみが自然で、又、顔の表情や身体の仕草が穏やかで豊かになり、外見上、周囲から浮いてしまうということが少なくなった。 それでは、そういう近頃の日本人留学生が周囲の学生と深い人間関係を結ぶのに成功しているのかというと、必ずしもうまくいっていない事が多いような気がする。例えば、大学の食堂で日本人留学生が学生の輪の中にいるのを観察していると、外見上は違和感なく周囲に溶け込んでいるにもかかわらず、そこの国の学生や日本以外の国から来た留学生に比べると、半人前にしか扱われていないという事が多いように感じられる。そしてこれは、仲間とおしゃべりをする時、その場にいる誰もが興味を持つような話題を提供したり、他の人が出してきた話題をより知的刺激に富んだものに発展させたりして、会話や議論を面白くする能力に乏しいからだと思う。 このように会話や議論をリードする能力に欠けていると、特に国際社会では、他の人間の信頼や尊敬を得る事は難しく、国際貢献などとても覚束ないだろう。これは、前に挙げた定義に照らして、教養がない、少なくとも、教養の中の大きな要素を十分に備えていない状態とみなす事ができよう。 そこで、なぜ、日本人留学生が、会話や議論をリードできないかを考えてみると、勿論、語学能力ということもあるだろうが、それよりも、日本社会にいた時から、会話・議論をリードする訓練を受けてこなかったということが大きく働いているのだと思う。それではどのような訓練を行えば会話・議論をリードできるようになるのだろうか。私は、(1)若者が仲間同士の雑談の質を高める、(2)大学の教養教育において学生が議論する機会を飛躍的に多くする、という二つが大事だと思う。 雑談の質の向上 近頃の学生の仲間同士の雑談の質は、残念ながら、大変に低いような気がする。身近にいる男女のカップルのうわさ話とか、就職活動で企業訪問した話とか、昨日観たテレビドラマの話というような話題について、ボソボソあるいはキャーキャーと情報交換して、それで終わってしまいがちである。身近な話題をとりあげるのはよいが、大学で学んだり本で読んだりして得た普遍的知識を生かして、身近な話題を、その場にいる仲間を超えた、普遍的に通用する議論にまで発展させるという事をしないのは、大変に問題である。おばあさん達が集まって、「隣村の与作の長男の嫁が、姑が大切にしていた茶碗をわざと割ってしまった。」という類の狭いコミュニティー内の情報交換に夢中になるのはほほえましいが、将来のある若者が、狭い仲間内の情報交換をダラダラと続けるのは何ともさびしい。 大学生諸君には、大いに本を読み、映画や劇を観て、音楽を聴いて、美術を鑑賞して欲しい。大学の教養教育で貪欲に知識を学んで欲しい。そこで得た知識を駆使して、仲間との雑談の質を高めて欲しい。それこそが、国際社会で会話や議論をリードするための最も基礎的な訓練になるのだから。 教養教育における議論の重要性 本来、教養教育というのは、孔子やソクラテスのやり方を見ても分かるように、対話や討論を通して行ってきたものなのだろう。ところが近代になって、学生が学ばなければならない知識が膨大となってしまったために、学校教育では、知識の伝達に力が集中されがちになった。特に日本では、明治以降、欧米先進国から知識を学ぶことが重要な課題となったので、そのような傾向がますます顕著になった。その結果、日本の学生は議論する能力を伸ばす機会が十分に与えられてこなかった。 しかし、国際社会で通用する教養を備えるとは、既に述べたように、普遍的知識を学んだ上で、その普遍的知識を生かして他の人間と質の高い対話・議論を行い、ひいては社会に貢献するという能力を身に付けるということなのである。したがって、単に知識を与えるだけでは教養教育としては不十分で、学生が習った知識を駆使して、議論する機会を設けて初めて完結するものだと思う。ゼミでは勿論の事、講義においても、知識の伝達を行ったら、その同一の講義時間内で、学生が今学んだ知識を駆使して議論するということが必要なのだと思う。 さらに、教養教育の授業が終わった後、コーヒーでも飲みながら、学生同士、できれば教師も加わって、今の授業で提示された普遍的知識・問題について、延々と議論を続けられたらと思う。欧米の大学には、大学構内に、議論に好適のカフェテリアやベンチや芝生があるか、さもなくば、周辺に、気兼ねなく議論を続けられるカフェが並んでいることが多い。日本の大学でも、長時間快適に議論ができる場を設けることを、教養教育の必須の条件と考えなければいけないのではないだろうか。 |
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