◇化石の戯言 | ||
情報科学研究科教授 生出 恭治 | ||
もう40数年も前のことになるが、大学に入学したばかりの頃のことが今も鮮明に想い出される。初めてクラスのコンパに出た時、同級生の自己紹介に度肝を抜かれた。まるで別世界のことであり、“Sturm und Drang”(疾風怒濤)の始まりであった。大半が何を専攻するかもう決まっていたし、相当数が「大学院」に行くと言う。ド田舎の分校育ちで、野山を駆け回り、野球に明け暮れるだけで、机に向かう習慣のなかった私は、既に痛い程埋めようのない学力差を感じていた。それだけならまだしも、色覚異常で学部にも専門にも希望や選択の余地がなかったし、何を専攻するかなど決められるはずもなかった。まして「大学院」などと言われても「それ何?」と言うしかなかった。隣にいた同級生に恐る恐る聞いたら、「お前も馬鹿だな」と一蹴されてしまった。身のおきどころのない大学生活のスタートであった。 学部を終える時に高校の校長さんから誘って頂いたが、友人達が大学院に行くというので一緒に受けてみたら、私の方が受かってしまい、その後、先生に勧められるまま、早く就職させたい親に勘当されそうになりながら、いい気になって一人だけ後期課程に進み、結局先生に勧められた大学に何となく勤めることになった。 これ程いい加減な生き方はない。以後、今日まで、学生諸君や、事務の皆さんを含めた同僚の方々に多大なご迷惑をおかけしてきた。人は自らの生き様と無関係にものを言うことはできないし、こんないい加減な生き方をしてきた人間の言うことは独りよがりに決まっているからである。それを承知の上で、求められればお断りすることもならず、30数年間にわたって性懲りもなく持ち続けてきた、化石のような愚見を蔵出しして大学生活最後の恥の上乗せをせねばならない。 1・2年生と30年以上もつきあっていると、時代の変化を感じ取るアンテナになったような気になる。だから、これから申し上げるようなことは、古色蒼然たる考えだ、と笑われるに決まっているのはわかり切っている。しかし、それを承知で、逆に、こんな時代だからこそ学生諸君には「何となく」ではない生き方を探して欲しいと願う。「決められている」のであれ、「決めている」のであれ、それに満足しているのなら、それこそ余計なお節介というものであるが、大学で生活することになったのを機に、もう一度自らに問い直し、何かを求めて解体から再構築への道を模索してみるのも悪くはないのではあるまいか。 人にはそれぞれに自らを活かす道が必ずあるはずだと私は信じて疑わない。目を見開いて見さえすれば、求める心がありさえすれば、新しい世界がいくらでも見えてくるはずだし、興味のあるもの、面白いものが次々に見つかるはずである。1つ見つかってそれに取り組めば、これまで見えなかった広い世界が見えてくる。その連鎖のなかで、のめり込み、夢を追いかけ、寝食を忘れて取り組む。それが、若い内だからこそできる、何よりも大切なことではないだろうか。 極論すれば、他人様から教わることなど単なるきっかけでしかない。「教育とは教えられたことをきれいさっぱり忘れた後に残るもの」(“Education is what remains when we have forgotten all that we have been taught.”)(G.Savile)という言葉がある。英語の教師失格だが、面白いから、思いっきりねじ曲げて、「まるでテープレコーダのように、inputされたことがそのままoutputされるようではもはや教育とは言えない」と解釈しておこう。近年いい試みも少なくはないが、反面では、やけに「役に立つ」とか「実践的」というお題目が教育の世界を席巻しているやに見受けられる。その必要性を否定するつもりなど毛頭ないが、騒ぎ過ぎて大事なものが見失われてしまうとしたら事は重大である。 カリキュラム上の「教養」は即“culture”ではないが、もし「教養」とは何かと問われたら、「自らの土壌を耕して肥やすこと」と応えたい。“culture”は語源上“cultivate”と無関係ではないからである。カリキュラム上の「教養」であればしばしば“Liberal Arts”が充てられるが、かつてイギリスで行われていた“Liberal Arts”教育はアメリカにわたって大きく変質し、それが戦後の日本にも輸入された。歴史意識の薄い日本に何かが外国から入ってくると、私のような半可通は、その受け止め方に大いなる疑問を抱いてしまうことがある。戦後の一時期から暫く「文理学部」という名称の組織があちこちにあったが、これはどうやら“Arts and Sciences”を「誤訳」したものらしい。もしそれが事実ならお粗未と言っただけでは済むまい。ほぼ似たような“Liberal Arts”にしても、歴史的な面を含めて果たしてどこまで正当に理解されているのであろうか。学問を云々するならそれと合わせて、あるいは、学問を云々する前に、“Liberal Arts”とは何かをその前提として改めて考えてみる必要があるのではないだろうか。老人のお節介とはまことに困ったもので、anachronism(時代錯誤)もいいところであるが、多少イギリスの伝統まで引き継いでいるのではないかと思われる“Lieberal Arts”に関するアメリカの例を1つ紹介しておこう。 歴史的に見ると、教育に何か大きな変革が求められて教育論議が盛んになる時には、どうもある種の共通点のようなものがあるような気がしてならない。教育がけたたましく云々されるのは教育にまだ信頼が残されているからだとも言えるが、一方では、つけを教育に回して“scapegoat”(「身代わりの生け贄」)にしているのではないかとあらぬ疑念を抱いてしまうこともない訳ではない。歴史のつけと全米を揺るがすような内部からの激しいうねりがあって、1960年代のアメリカはまことに不安定な時代だったが、この頃もう既に大学教育の危機が叫ばれ、教育論議が大変盛んだったようである。時おりしもシカゴ大学が創立75周年を迎え、大学をあげて記念シンポジウムを開催することになった。いかにもアメリカの大学らしく、“Liberal Arts Conference”と銘打った、“Liberal Arts”をテーマとするものであった。その基調講演を行ったのがW.C.Booth教授で、その最後を次のように締めくくっている。 「真・美・善(「正しい選択」)」は、大学のどんな学部における研究にも相応しいものである。例えば、美・想像力・芸術と言ったからとて、人文科学が独占して研究するものではないし、思索的真理と言ったからとて、いろいろな科学の分野だけのものではない。さらに、シェイクスピアやアリストテレス、ベートーベン、アインシュタインさえ知らないとしても、一人の人間たり得る。ただし、自らの考えを持ち、美を受け止め、自らの行うべきことが見定められるようになっていればの話であるが。何か知ろうとすることを外から決めつけてしまったり、これだけ知ればいいと言ってみたりするのは、大学のやるべきことではない。そんなことをすれば、押しつけられたものに憤慨するのは当然である。ひょっとするとすぐその場で、ひょっとすると押しつけられた知識が時代遅れになってしまった10年後に。思うに、大学が為すべきことは、少なくとも、先に申し上げた3つの面で、どうしたら[思考・感情・意志等の働きをする]心の営みが自立してできるようになるかを学ばせる手助けをすることである。 (“Truth, beauty, and goodness(or “right choice”)are relevant to study in every division within the university;the humanities, for example, have no corner on beauty or imagination or art, and the sciences have no corner on speculative truth.What is more, a man can be ignorant even of Shakespeare, Aristotle, Beethoven, and Einstein, and be a man for'a that-if he has learned how to think his own thoughts, experience beauty for himself, and choose his own actions. It is not the business of a college to determine or limit what a man will know;if it tries to, he will properly resent its impositions, perhaps im mediately, perhaps ten years later when the imposed information is outmoded.But I think that it is the business of a college to help teach a man how to use his mind for himself, in at least the three directions I have suggested.”) (“Is There Any Knowledge That a Man Must Have?”(W.C.Booth) 生涯の心の灯として、全学教育よ、永遠なれ! 妄言多罪。 |
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