◇専門バカにならない学生生活を!
仙台中央法律事務所弁護士  青木 正芳
 脳外科の新進気鋭の医師と評価されている青年の離婚問題に、その妻からの相談で関与した時のことである。

 その青年の主張には、およそ、女性の立場、そして妻の人格を尊重する発言は見られず、この人は、周囲の人々の人格をどのように考え、接しているのであろうかとの疑問を強く感じざるを得なかった。

 そして、ふと、この医師は、自分が手術する患者の人格をどのようなものと理解し、その患者にどのように術前の説明をしているのだろうかと大きな疑問を持ったのである。

 何回かの話し合いの結果、離婚問題は解決したが、その過程で彼が人間的に過ちを犯していたことに気付き反省してくれたとは必ずしも思えなかったことが残念でならない。

 最近、知人がガンの末期症状に逢着した時、それを告知した後の医師の患者に対する態度が、あまりにも非人間的なので、その上司にお願いし、医師の交代をしていただいた事例があるが、優れた専門的知見も、それを支える人間性豊かな人格がなければ、ただの専門バカにすぎないのではないかと思うのである。

 すぐれた専門的知見を有していても、それを裏付ける豊かな人間性を身につけていない人を私は専門バカと言いたいのである。

 振り返って、自分の20代の頃弁護士としての離婚問題の処理を考えてみると、60代の男性が、長年妻と折合いが悪く、別居生活が続いていた事例での終止符を打つ話し合いに、今考えると机上の知識だけで切り過ぎていたのではなかったかと反省させられ、私もまた、専門バカでなかったのかと考えざるを得ないのである。

 死刑冤罪事件の法廷で、死刑判決を支える血痕鑑定を担当した著名な法医学者を尋問した時、血痕鑑定の手順について、自分の著書の内容とも矛盾する手法を使ったことについて切り込んだ。その時彼は、捜査当局が、そのような条件を示したから、その下で鑑定しただけだと苦しい証言に逃避し、自分が誤った死刑判決に手を貸したことの責任を回避しようとした。それであるならぱ、捜査当局から示された前提条件の問題性を科学者として何故指摘しなかったかとの問には、それは、自分の権限外のことであるとさらに逃げた。この態度の中には、自分の科学的知見を誰の求めに応じ、どのように使おうとしているのかとの点についての思考は全く欠けていたとしか言いようがないものであった。

 誤った死刑判決を破るための鑑定をされた他の法医学者は、自分は、絶えず、自分の科学的知見を、人権を守ること、誤った裁判を生まないようにすることに奉仕する意識で、鑑定に取組んでいると証言されたことと際だった対照を示していたことを忘れることができない。

 専門性を支える人間性の重要性を示す対照的な法医学者の姿勢・思考の違いである。

 一昨年、ボストンやサンフランシスコに法曹養成制度の調査に行った。必ずしも有名でないロースクールで、その学生の多彩さに驚いたことがある。医療機関で働いていた人、福祉施設で働いていた人、警察官だった人、市役所職員だった人、会社勤務を辞めた人、商店経営を兄弟に譲って入学した人などなどである。

 この人々は、働きながら自分の生き方を考え、改めて学費を貯え、学資ローンを使い、専門性を身につけようとしていた。この姿は、専門性を支える豊かな人間性を築く努力をしながら専門性の修得にはげんでいる姿でもあり、改めて感動させられたのである。

 ロースクールの最終段階では、弁護士に伴われ、実際の法廷にも立つのであるが、優秀なのは、ハーバードだとかバークレーの学生だけとは限らないという話を聞いていたが、この人々と話し合ってこの話が本当であると実感もし、納得もできたのであった。

 おそらく、この人々の中には専門バカは少ないのではないかと思われた。

 この専門バカにならないようにするため、特に大学1・2年の時間は大切に使って欲しい。この時期、どのような友人を作り、その人々とどのような本を読み、そしてよき先輩、よき先生との交流をどのように持つかによって、その内容の充実度は大きく変わってくるものと思う。

 そして、それはとりもなおさず、専門性を支える豊かな人間性の形成への蓄積にも繋がっていると思われるからである。

 今、わが日本で取組まれている司法制度の改革では、市民の司法への参加の制度として「裁判員制度の創設」が検討され、まもなく法案化されるところまで進んできている。

 先進国と称せられるG8の国々の中で、司法に市民が参加していない唯一のわが国でも、戦時中、停止されたままになっている「陪審制度」に代えて、新しい独自の制度の創設が計られようとしているのである。

 この改革についても、裁判は専門家に委せておけという意見が聞かれることも決して少なくない。しかし、この裁判の中における事実の確認の仕事は、専門家でなければできないことではないといった点なども含め、違った意味で批判されなければならないことである。

 それはとも角として、改革の取組みの一環として、日本でもロースクール制度が創設され、大学の各学部で学んだ人々や、社会人として活動している人々が、改めて法曹の道をめざすことが期待される制度が作り出されたのである。

 この制度が、人間性豊かな多くの法曹を生み出す制度に育って欲しいと思うと同時に、これを契機として、大学の中で学生が真に専門性を生かす生き方について、充分に検討し合う生活を目ざすことを期侍したいと思っている。

 一昨年、私の講義を聴いた或る工学部の学生が、法曹の途を考えてみたいと言っていたが、彼がその後、どのような学生生活を送っているのか大いに気になることでもある。

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