◇二つの目、二つの心
文学部教授 佐藤 牧夫
 会議の席で隣合わせたS先生にモンゴル語ヘの関心を漏らしたことから、西洋史のH先生と若い言語学徒Y氏と私の三人で、夏休も冬休もなく隔週土曜日の午後、S先生の研究室でこの言葉を学ぶことになった。外国人研究者に日本語を教えるS先生はモンゴル語が専門である。外国人学習者用にラウンバートルで作られた教科書を使って平成三年三月九日に始まったこの教室は翌四年三月七日に最後の課を終えるが、それは他大学へ転ずるS先生とのお別れでもあった。後に残った初学者三人は文学作品挑戦を志すものの、ジュール・ヴェルヌ『八十日間世界一周』のモンゴル訳しか見つけられなかった。それは苦労して読み解いた長い長い文章がフランス語原文のどこに対応しているのか実にしばしば不明な「翻訳」だった。三人が持ち寄る辞書も文法書も初学者の迷いを解いてはくれず、秋十月、私たちは疲れはてて白旗をかかげた。その間、カタログから新刊近刊書を拾っていろいろ注文したが、取次店の危倶どおり、草原の国から一冊の物語も詩集も絵本も送られてこなかった。この事情は今も変わらぬらしい。

 中世フランス詩人の書いた恋物語が時好に投じ、いくつかの言葉に語り直されている。昨夏、思い立ってその中世アイスランド語版を読んだ。そして先頃、ユトレヒトの古書店の目録に中世スエーデン語版を発見し喜び勇んで注文したところ、すでに先客があった。中世フランス、イタリア、ドイツ、オランダ、イギリス、アイスランドの版は入手して、いくつかは読み終えた。だが、中世ギリシヤ語(ビザンティウムギリシヤ語)版に巡り会う日がはたして来るのだろうか。

 第二次大戦の直後にブラジルに亡命したユダヤ系ハンガリー人がポルトガル語で書いた本を、昔、ドイツ語訳から翻訳した。後年、同じ本をポルトガル語からハンガリー語に翻訳した学者をブダペストの自宅に訪ねたことがある。バルカンの言葉がエキゾチックに思われると言う私にハンガリーのロマニストは例えばオランダ語に異国情緒を誘われると語った。そのポルトガル語もハンガリー語も学んだ。定からぬ対象に向けられた、悲哀の色濃い、名伏しがたい憧憬の中で一生を生きるというポルトガル人。風に逆わぬ草木ぶりを演じて、異民族―モンゴル、トルコ、ハプスブルク家、ソ連―支配の歴史を生き抜いてきた強靭なマジャール人。言葉で学べばそういう人々が身近になる。親しい友になる。

 ベルギーの青年と知り合って一年ばかリ一緒に中世オランダ文学史を読んでもらった。また、先年は客員教授として在仙していたライデン大学の医学史の先生に私の好きな詩を何篇か読んでいただいた。それは万人にぜひ原文で味わってほしい美しい詩である。

 トルコ語を学べば世界を日本人とトルコ人の二つの目で見るようになる。そのとき私の目にもオスマントルコの栄光が一段と輝いて見えた。ブルガリア語を勉強すると、ブルガリア人と日本人の二つの心で歴史を受けとめるようになる。私は、今、五世紀もの間オスマントルコの圧制に苦しんだブルガリアの人々と悲しみを共にする。『弁明』の原文からソクラテスの肉声が聞こえるように、韓国の書物を原語で読む人の心には、自民族の文化・伝統を誇るこの人達の自信と海を隔てた隣人への批判が濁りなく伝わってくる。

 あのベルギー青年が私も知るセルビア女性とミュンヘンで結婚した。この人の文化を直接知るために私はセルビア語を学び始める。人との結びつき、物語への興味、文字の魅惑的な姿、抗い難い異国情趣、研究上の必要などから言葉と親しんだ。だが、その数は二十に過ぎない。二つの目、二つの心を一つでも多くもちたいと思う。(中世ドイツ文学)

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