◇教卓の前と後で
言語文化部教授 長沼 敏夫
 初めて東北大学第一教養部に足を踏み入れたのはもう40数年も前のことです。「青雲の志」などという筋違いのものは持ち合わせていなかったものの、やはり「ふるさと」といわれるものの懐あるいは桎梏から解放されて、新しいぼくの世界が開けてくるに違いないといった、晴れ晴れとした気分でありました。その当時、校舎は三神峰にありまして、木造三階建ての誠にお粗末なものでしたけれど、ぼくの設計図を夢想するのに特別支障はありませんでした。

 あるドイツの小説家の作品に魅せられていたぼくは、この作家のものでも読んで暮らせたらいいなと思い、とりあえずはドイツ語に精を出す決心をしたのですが、面倒な文法と、無限に続きそうな辞書との相談にうんざりして、世の中にとり残されたような気分になったのを覚えています。つまりこの世界にはもっと緊急を要する問題があって、動詞の人称変化など構ってはいられないという思いが、沛然と沸き起こって来たのです。

 社会科学系の授業に首を出すと、そこでは社会発展の法則とか必然性とかいうことばが飛び交い、高校時代にあまり得意ではなかった物理の世界が思い出されて、俺の自由はどこにあるなどと憂鬱な思いに駆られたものです。

 大学院を卒業して、まもなく幸運にも東北大学の教養部に招かれ、ドイツ語の教師の第一歩を踏み出しました。その時校舎は川内に引っ越していまして、川内分校とよばれていました。そこで真っ先に必要とされたのがドイツ文法の知識です。それまでまあ何となく分かると思っていた言葉が、教えるとなるとそうはいかず、お勉強のやりなおしを余儀なくされたわけです。動詞の人称変化と名詞の格変化とは学習の初歩の2本の柱ですが、「私は木を見る」「君は木を見る」「彼は木を見る」などとは日本語ではあまりいわない。「木が見える」「見えるだろ」「見ているんだろう」といういい方の方が普通ではないでしょうか。大体他人の目に映っているものが私に分かるはずはないのですから、「彼は木を見る」と断定的にいうのはどうも憚られる。勿論ぼくたちも、彼が木の方に目を向けていれば、きっと木を見ているのだろうと推量して、しかも大体は当たっているのですが、三つの人称で平等・対等に感覚的な事柄を表現されると、教卓の後に立っている者にとっては何か説明しないといけないかななどと脅迫されているような気分になります。

 同じように、不定詞、過去、過去分詞を覚えなさい、とやるわけですが、現在がやがて過去に移り変わるなどといっていると、ではいつから過去になるのだとか、さっきの現在は今どこにあるのかなどと質問されると非常に困るわけです。直線を描いて、適当な点を現在とし、その右側は過去とする。しかしそこで分かるのは出来事の先後関係だけです。かつて「木が見える」という経験をしたことを今私は思い起こすことができます。しかし「木が見えた」という過去形の文の内容を思い浮かべることはできません。いづれにせよ、見るから見えるのか、見えるから見るというのか、あるいは「先程の現在」は今どこへいったなどと考えていると、ドイツ語はうまくならないようです。ただひたすら繰り返して覚える、テープの音をできるだけ真似るだけです。頑張りましょう。

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