◇東北大学での英語教育 | ||
国際文化研究科教授 佐々木 肇 | ||
昭和38年4月、思いがけず東北大学川内分校の英語教官として職を得てから、34年の歳月が流れ去ろうとしている。思いがけずというのは、大学院博士課程在学中の前年に、フルブライト全額給費奨学生に選ばれ、7月末の渡米が決定していたので、4月からの就職などはまったく諦めていたからであつた。それでも講師として採用され、川内分校で4ヶ月足らず教壇に立ち、その後1年間公用出張という形でペンシルベニア大学大学院で勉強する機会を与えられたのであった。今の大学の採用人事では考えられないことで、時代はそれだけおおらかであったとも言えよう。 翌昭和39年、東京オリンピックの年にわたしが帰国したら、川内分校は制度化の名の下に教養部に再編されていた。当時の教授会では、すでに教養部改組、もしくは再編ということが議題となり、教官が専門課程を担当できる組織を作ることが論じられていた。教養部改革の議論は、その後の長い、暗い大学紛争の混乱の時期を通して続けられた。そして教養部を中心とする東北大学の改編が、まがりにも実現したのは、数々の紆余曲折を経た後の平成5年の4月であった。教養部での一般教育科目が、全学教育科目となり、教養部もそれと共に姿を消すこととなった。 川内分校に始まり、大学院国際文化研究科に至るまで、所属する組織の名前は変わったが、わたしは一貫して1年生、2年生の英語教育を担当して来た。最初は、大学院文学研究科で学んだこともあって、わたしの英語の授業も、その教材が文学的なものに偏るものだったと思う。しかし昭和38年夏からの1年間のアメリカ留学が、英語教育についてわたしに一つの認識を与えてくれた。それはわたしがその後かかわることになる「アメリカ研究」という学問研究領域とも関連するのであるが、言語というものは文化を反映するものであり、その背後にその言語を母国語として話す人びとと、彼らの持つ歴史や社会があり、言語もそれを使う人間と同じように生き続けているという認識であった。 したがって英語教師として、わたしは教室では英語の背後にあるもの、簡単に言うならばアメリカやイギリス文化、もしくは英米事情をできるだけ教え伝えることを、英語教育の土台に据えて来たつもりである。教室では講読、英作文、L.L.、英語演習、そしてアメリカ研究総合と、殆どすべての科目を担当したが、特に忘れられないのは昭和40年代の前半に、当時の同僚の池谷彰氏と共に、まとめ役となって行った英語教科目の再編である。新しく創設された自由聴講科目のわたしの「英語演習」に出席した当時の学生の一人が、近年東京大学教養学部の英語教科目の再編に中心的役割を果たした佐藤良明氏であることに妙な縁を感じる。 教養部での英語の授業とは別に、昭和43年の夏から三夏試みた「英語集中訓練(I.T.C)」も記憶に残る思い出である。当時の大学英語教育のあり方を模索する試みとして、財界を中心として財団法人語学教育振興会が設立され、全国の大学の英語教官に一夏200時間の英語集中訓練への参加を呼びかけた。東北大学からは同僚の大友芳郎氏とわたしが応募し、3年間にわたって助成金を得た。参加者は学部学年を問わず、人数は一夏16名に絞った。英語を使用言語とし、アメリカ人インフォーマントの協力を得ての、2週間140時間の合宿を含むこの200時間の訓練成果は著しく、当時の参加者の多くが、世界的な場面で現在活躍中である。その一人が、ノース・カロライナ大学医学部教授の前田信代氏である。 東北大学学友会のE.S.S.(English Speaking Society)は長い歴史を誇る部であるが、前部長の吉良松夫氏の跡を引き継いで、昭和45年4月以来27年の長きにわたって、わたしは部長として部の活動にかかわらせていただいた。そこでもわたしは文化理解の大切さをことあるごとに強調して来たつもりである。かつての部員の多くが、国際的な舞台で活躍中であることは言うまでもない。 英語教官を含め、外国語教官は少なくても10年に1回くらいは海外研修や海外体験が絶対不可欠の要件である、というのがわたしの信念である。幸いに、わたしはその後昭和47年、昭和57年、昭和63年と、都合4回のアメリカでの長期研究・研修の機会を持つことができたが、これらの機会が、英語教官としてのわたしを支えてくれたと言っても過言ではない。 最後に、東北大学の英語教官であったことを誇りに思うと共に、英語の授業を通し、また教室外での活動を通して、実に多くのすばらしい学生諸君に巡り合えたことを喜び感謝しつつ、今わたしは東北大学を去ろうとしている。 (1997.2.10) |
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