◇向学心から緊張感が作られる場に
教育学部4年生  渋谷 晃太
 目の前には真新しいノートと筆記用具が並んでいた。大学に入って初めての全学教育科目の授業の教室は、ある種の緊張感に満ちていた。

 しかしながら、その後、その緊張感はなくなり、どこか注意力散漫な、だれた空気が常に教室には漂うことになる。

 大学は自ら学ぼうとする場である、という理念は十分に理解していたし、自分に興味があるもの、ないものに関わらず教養を身につけようと様々な全学教育科目の授業を履修した。向学心は十分にあった。だが、緊張感というものが生まれてこず、そのためどこか集中できない。周りの誰もがそうだったわけではないが、大半がそうだったのではないだろうか。その空気が教室に充満し、緊張感のない場を作り出していた。緊張感のない授業の場は、身につくものもまた少ない。ではなぜ、全学教育の授業の場は緊張感が生まれてこないのだろうか。

 考えられる理由はいくつかある。まず、最も大きいのが中学・高校の頃の受験というような大きな目標がないことがあると思われる。確かに大学という場は中学・高校とは意味合いが違う。自ら学ぶこと自体が大きな目標なのではあるが、先が見えないというのはどうにも苦しいものである。そのため、どうしても単位のため、という手近な目標を置いてしまい、これならまあ、と気持ちが緩んでしまう。よって別に真剣に取り組まなくとも、という気持ちが生まれ、緊張感がなくなってしまう。

 また、大学側の事情もあるだろうが、大教室の多人数授業というものも、緊張感を生み出しにくい環境であると私は考える。どうしても受け身の態勢で授業を受けることになり、緊張感も緩んでくる。これは我々生徒の側にも確かに問題はあるが、もう少し少人数で、ディベートなど積極的に授業に参加できる環境を作ることは、緊張感を生み出すためにも必要なことではないだろうか。

 最後に、全学教育というとどうしてもこれまでの一般教養のイメージが残り、どこか軽んじられるところがある。これは我が大学に限ったことではなく日本人全体のイメージとして固定化しているところがあるように思われる。私にとっては全学教育の意義は大きかっただけに、解決されねばならない大きな問題であろう。

 誰しもがより高度な学問を身につけたいと願って大学の門をくぐる。向学心に満たされている。その向学心を最初にぶつけるのが、全学教育科目であるのだから、その場は向学心が緊張感を生み出す場でなくてはならないであろう。そのためには我々学生の側の意識の問題と、大学側の環境整備の問題からの双方による努力が当然のことながら必要となってくる。私が2年の時の仏語の授業はものすごい緊張感があり、一瞬足りとも気が抜けなかった。大変ではあったが、向学心に燃え、とても充実していた。あ
の充実感が全ての全学教育の場にもたらされることを願いたい。

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