◇学生実験雑感 | ||
工学研究科教授 武部 雅汎 | ||
大学での学生実験を担当したのは古く、修士一年になった時からである。新設の研究室で助教授1、助手1だけで、しかも新しく学生実験を分担し、その準備をしなければならず、なりたて二人の院生も手伝う羽目となった。テーマの選定、試薬の濃度、混ぜ方、必要時間、すべて自分でやってみて工夫し、時間内で指導書に示してある要点が体験できるようにした。できるだけ計算値、理論値に合うように準備する。 そして、そのように結果の得られるテーマを選んだ。だから、こちらの予定通りに結果が得られれば成功とした。それでも準備した通りにはならないことがあった。 しばらくして、また学生実験を担当することになった。今度は原子量を求めるものであった。実験を終わって、学生の実験レポートを読むと、彼らは正確な原子量を教科書などで知っている。すなわち答えを知っている。そして、自分の得た値が答えとかけ離れていることを知ると、ほとんどが反省の弁で考察は終わる。実験に失敗した、実験が下手だからなどと続く。原子量とは身近なもので、簡単な実験でもわかるものだということを体験させようとして行った実験も、結局彼らに非力、無力感を植え付けるだけで終わってしまったような気がしている。 それに懲りて、こんどは実験方法を指示しない実験をさせることにした。たとえば試薬の濃度、使用量は自分で決めるようにする。こちらは多種類の器具、試薬を用意し、要求のあったものを出すようにした。各実験段階でどの点が重要で、それをしないとどんな結果になるかを体験させようとしてでのことである。しかし、これも手間の割には効果が疑問であった。なぜなら最初のグループが実行して探し出した条件を終わりの方のグループは聞き出して、その情報の基に行う。自分たちで考えで条件を選定しないのである。 実験は手間のかかるものである。そして、ほとんどが失敗の連続である。まして条件を探りながら行うのはいくら時間があっても足りない。時間内で終え、まとまった体験を期待すると、どうしても親切な指導書が書かれる。料理の本のようになる。失敗をさせない。失敗を意識的に経験させる実験はあまりやらない。しかし、失敗こそ勉強である。自分の経験、知識に基づいて、こうなるはずだと行って、その通りにならないときが最も勉強になる。ラジオ製作は人気のテーマであった。ラジオが鳴れば成功である。渡された回路図通り素子をつなげば普通は鳴る。しかし、鳴らないときがもっとも勉強である。原因追究の時、各素子の動作も理解できるようになるが、それを行う時間的余裕がない。 学生は研究室に入るとテーマに沿って実験をする。この時、実験結果を比べるのはたいてい理論値か、他の人の結果である。そして、他の人の結果とか理論値に合うと実験は成功したとして学生は喜ぶ。そして、実験はそこで終わる。しかし、これは研究実験としてはあまり意味のあることではない。誤差を考え、実験条件を考え、事実は理論値とこれだけ異なっていると確信をもって云える。これが実験である。はじめから答えのある実験だけを行っていると答えに合わないときは失敗であり、自分が悪く、答えに合っているときは成功となる。1+1=2だと教えて、2にならないときは自分が悪い、失敗だと教えていくと、あらゆるものが2になるものだと思いこむ。事実は逆で2になるものだけを教えているのである。全てがあてはまるわけではない。教科書はうまく説明できることだけを集めて説明しているのである。あてはまる 所だけがオームの法則となるのである。これが全てではない。ということをあまり体験させないような気がする。答えを性急に押しつけて居るような気がする。 実験は楽しいものである、まして予想した通りにならない時、この時が最も楽しいときであると常に口癖にしていた先生がいた。だからうまく行かない時に相談に行く度、実に嬉しそうに実験台へ向かって下さった。そして、うまく行かない理由をこちらから訊きながら楽しそうに推理するのである。実験操作の失敗から生まれた新しい発見は多い。どんなことが起こっても事実を見つめることから得られることは多い。意識的にはできないことが体験できるのである。濃硫酸に水を混ぜてはいけない、危険であると教えられている。絶対に行ってはいけないとされている。しかし、どんな条件でどのくらい危険か体験させることはなく、またそれが起きた時にどのような処置をすれば良いのかも教えない。失敗からの戻り方、失敗の生かし方これを体験する方が大切な気がする。 自らの知識、経験から結果を予想し、実行してみた結果を解釈し、納得のいかない点を再度条件、方法を変えて挑戦する。そんなことが学生実験でできたらなどと考えることがある。 |
||
前ページ |
次ページ |