◇四十年前二十三 | ||
言語文化部教授 半田 恭雄 | ||
わが「つひのすみか」言語文化部での、最後の年もおしつまったころ、最終講義の予定はないか、という問い合わせを受けました。ない、と返事しましたが、じつは私の「最終講義」は、すでにスタートしていたのです。 長い年月をドイツ語の手ほどきにたずさわった身として、最後の年のドイツ語基礎演習こそ、わが「最終講義」と思いさだめ、その開講時に、君たちと学習するこの一年がオレの最終講義なのだ、と宣言して、すなおに私をふりあおいでいる新入生たちに、それとなく決意をうながしました。 私は毎年、初回に2,3語の文章で名前や出身地を聞くデモンストレーションをします。このときは学生のほぼ全員が、聴覚をとぎすまして教師に注目していますから、私がくりかえす単純なドイツ文を何回か聞いているうちに、見当がつきはじめる学生が出てきます。何人かは疑問文の構造を見ぬいて、私の問いかけにうまく応じたり、同じ質問を正しく隣の席の仲間に発したりします。おおげさにほめると笑いが起こり、まちがえると笑いが起こる、私のいちばん好きな時間です。しかしこれが、最近の学生にはどうも逆効果で、学生たちは私と私の講義とを、「くみしやすし」と見てとるようです。 「最終講義」は録音しておこうと思い、学生たちには内緒で小型のテープコーダーに録音を始めたのでしたが、あまりの私語にカッとなって、3回目の講義でどなりつけました。どなりつけた自分の声を再生してみて不愉快になり、それきり録音は止めました。 自分の声が不愉快になっただけではありません。叱りつけられると、叱った方が呆れるほど萎縮してしまう「大」学生たちのかもし出す雰囲気にも、不愉快になったのです。オレをなめるのはいい、しかし講義をなめるな、と私はよく言うのですが、べつになめてなんぞいないのに、どしたの、という顔つきの「大」学生たちを見ていると、オレもそろそろ骸骨を乞うてよい年齢なんだな、と思わざるをえません。かりに私が不世出の英才で、何十分かの最終講義が畢生の名講義であったとしても、私はそもそも何人の学生たちのために語ることになるのでしょう。 ともかくこれで、私の講義の声は歴史から消え去ることになりました。しかし、録音を止めてよかったと今は思っています。30年も教職にあれば、少なくとも1万人には手ほどきをしたことになるでしょう。その中には、いま自分がドイツ語に堪能なのは、半田に基礎力を養ってもらったからだ、と思ってくれている学生も一人ぐらいはいるでしょう。彼の脳裏によみがえる私の声の方が、テープの復元する声よりもはるかに私の肉声に近いでしょうから。 録音を止めても「最終講義」であることに変わりはないのですが、いったん快くはりつめた緊張の糸は、いささか弛緩しました。私はまたいつもの通り、講義が終わると次の講義の準備にかかる、自転車操業の教師に戻ってしまいました。そうして再発見したのは、これこそ私の授業運営だ、ということでした。不十分ながら用意した「最終講義」のシラバスを私は捨ててしまい、その日の成果に次の講義を積み重ね、その日の不備を次の講義で補足する、いわばその日暮らしの半田にもどることにしました。只此の一筋に連なる、と腹をくくりますと、教材の選択と活用に関するアイデアは泉のように(?)湧いてくるものです。すべてが良質の湧き水とはかぎりませんが。 それでも、今なおありありと思い出せるクラスがいくつかあります。外国語が好きでたまらない、未知のものに触れるのが楽しくてしょうがない、教師とやりとりするのが面白くてしょうがない、そういう学生が数人いてクラスの雰囲気を方向づけている、そうして「その他大勢」は、この数人が発散するオーラに動かされて自分を錯覚し、こころよい錯覚の中に安住しながら、授業を生き生きと体験している、そういうクラスです。 毎年春、そういうクラスの出現を待ちながら、自分なりのシラバスを思いえがいて、いつの間にか37年が経ってしまいました。南宋のある皇帝が、科挙の合格者の中に73才の老人を見つけ、妻帯する余裕もなかった精励ぶりに同情して、美しい宮女を妻として下賜したとき、これをからかって「新妻に年を聞かれたら、五十年前二十三!」という唄がはやったそうです。さほど精励もせず、ちゃんと妻帯して子も育てましたが、心中を去来するのは、やはり四十年前二十三!の想いです。(1998.1.7) |
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