◇「むんつん語り」の弁
情報科学研究科教授  望月 望
 これは何も最近に限ったことではないが、学生諸君の答案(数学)を読んでいて気になることがある。例えば、「A=Bの成立には、a=b。」などと書く。求めるものがa=bであっても、私としては0点を進呈したいところだ。この文章は何も言っていない。というより、文章になっていない。この文脈では、「A=Bの成立には、a=bが必要である。」か、又は「A=Bの成立には、a=bが十分である。」とすればまあいいだろう。通常の問題では、答えは大体必要十分であることが多いから、結果として「a=b」だけでよいことになるだろうが論理的には違う。安易に述語を省略していると、大切なことが分からなくなる。述語によって内容の表現が完結することになるから、その有る無しは大問題である。このことは、教師や新聞・TV関係者などが真剣に考えるべきことだろう。しかるに、今や到る所でこの述語省略が幅をきかせているのである。

 この現象は、確かなことは分からないが、3人のオバサン女性(も変だが)を中心とした或るにぎやかなTV番組から生じたような気がする。そこでは主人公達が盛んに「−−かも。」という言い方を連発していたのである。

 私が小・中学生時代を過ごした田舎では言葉遣いが大層乱暴で、「やい、おめえ」などというのが子供同志の普通の言い方だった(今は知らない)。そのため、町の高校に行くようになってから随分と苦労した。何しろ、まわりでは「ネェ、君」などと言う。とても恥ずかしくて言えやしない。密かに会話の練習をしたものである。いろいろ気にすると旨くしゃべれないし、また外国語の修得にもよくない様だ。ともかく、言葉というものに対して私が非常に(或いは異常に)敏感になったのは、こんなところに一因があるのかもしれない。

 20年程も前のことだろうか、或る事件で或る人物が国会に喚問されたとき、「記憶にございません。」とやった。その言い方には驚いた。これは、「記憶(が)ありません。」が普通だろう。ところが、あっという間にこれが流行するに及んで更に驚いた。俄然興味を覚えて観察すると、こういうことは後をたたず、ただ呆れるばかりである。私は我が強いせいか、自分の感じに合わないとまず「変だ」と思うのだが、世の中ではすぐ真似するらしい。まさに猿真似的現象である。

 ついでにもう一つ言えば、世間ではカタカナ言葉を使うのに躍起になっているようだ。日本人は日本語を使うと馬鹿で、英語(のようなもの)を使うと偉いのである。だが事実は逆で、結果的に自分を貶しめているにすぎない。黒い髪をいくら金髪に染めても、決して「ジェニー」にはなれないのである。

 世の中のことが気に食わずいつもブツブツと文句ばかり「語って」いるジイサンを、「むんつんかだり」と言うのだそうで、仙台育ちの家人に教えられた。私がまさにそうだと言うのである。それを聞いて、私はなんとも嬉しくなった。40年以上住んでいて仙台弁なるものは好きになれないが、これはすっかり気にいった。

 言葉などというものは常に変わるもので、些細な現象をあげつらうとしたらそれは愚かなことだろう。だが、いろいろな意味でつい語りたくなるのが現状である。日本人には日本語があり、それには独自のよさがある筈だ。萬葉集の一首を口ずさめば、誰だって懐かしい気持になるだろう。アーサー・ウエイリーが「源氏物語」を翻訳したとき、直ちにこれは世界最高の文学の一つだとの評価を得た。ハイクは今や世界のものとなりつつある。私たちは固有の言語を、出来るだけ豊かにまた格調高く保つよう努力すべきではないのか?

 こんな繰り言を連ねていてはきりもないが、この辺で、世に「むんつん語り」の多からんことを願いつつ筆をおこう。    (以上)

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