◇物理を教えて30年 | ||
理学研究科教授 江幡 武 | ||
東大紛争を逃げ出すように5年間勤めた原子核研究所から仙台に戻ったのが昭和44年(1969年、この年は東大で入試が行われなかった)で、それ以来1999年退官まで丁度30年経過したことになる。その前の学部と大学院の9年を合計すると、仙台並びに東北大学に約40年お世話になった。 評判のあまり芳しくない古びた川内北キャンパス校舎ではあるが、昭和44年赴任当時教室として使われていた、米軍キャンプ時代の木造バラックに比べると、建築当初はすてきで立派に見えたものである。建築後わずか30年足らずで老朽化してしまう大學の建物というのも情けないが、我が国がこの間大方の予想を超える発展を遂げ、建物その他に対する要求水準がすっかり変わったにも拘わらず、文教予算が国の発展の割には貧弱だったせいなのだろう。古びていてもそれなりの雰囲気を持っていれば、敬愛されるのであろうが、川北の教室はあまりほめられていないようである。私が嘗て学んだ北京市立第二中学校(1724年創立)の現在も使われている校舎は、明時代の将軍邸宅を転用したもので、使い勝手こそ極めて良くないが、風格があり、今後も大切に保存されるとのことである。 学生の理科離れ、物理離れが進んでいるという。本学ではそれほど顕在化していないが、学生諸君の学力はこのところ次第に低下しているといわれている。授業の出席率はしかし昔よりむしろ向上しているように思われる。自発的に、自身の興味に基づいて勉強しようとする学生の割合が少し減少していることが、このような印象を作り出しているのではないかとも思う。物理に限る必要は毛頭ないが、興味をもてる分野、情熱をもてる分野を見つけて欲しいと思う。高校での学習が十分でなかったからといって、物理学の授業が分からないものとあきらめている人も少なくないようであるが、それは違っていると思う。私事で、しかも自慢になりかねないので恐縮であるが、自分の体験に鑑みてそう思う(私は、小学校5,中学校5,高校2校を転々として、大學で初めて落ち着いて勉強ができるようになった)。必要なのは「不思議だな」と思う好奇心と自発的努力である。先生の所に質問に行くこともおすすめである。私自身は質問に来る学生を歓迎したつもりであるし、多くの先生も同様だと思う。多忙な先生のアポイントメントを取るには、電子メールの活用が便利である。 大學での物理の講義内容・水準は、努力して学生が8割程度理解できるというので良いのではないかと思う。物理学の学習では、基礎的部分で記憶を要する部分が多少ないとは言えないものの、大切なのは考え方を理解することである。高校で習った人は、大學の物理が言葉は同じでも内容が高校とは随分違っているので驚くことが多いようである。考え方、概念の把握ができれば、大學で物理を学ぶには、高校で学習したか否かはあまり関係ないと思う。 これまでの研究のめざましい発展で、物理学にはもう画期的発展の余地が残されて居ないのではないかという印象を持つ人も少なくないが、現在の物理学では、例えば世の中(宇宙)を作り上げている主な物質(ダーク・マター)の正体がまだ分かっていないことなど、ロマンに満ちた解決が求められている問題もまだまだ少なくない。長さで言えば、10^-35m(プランク長)から宇宙の大きさ約10^26mが物理学の研究対象である。人生わずか80年、身長2メートル足らずの人間が、宇宙創生の瞬間から遥かな宇宙の未来までを研究の対象にして、思いを巡らして居るというのは驚嘆に値する。そして、今後狭い地球でひしめく人類を支えるのは、物理その他の個別科学技術あるいはそれらの複合である。科学技術と人間は、環境問題を始めとして、様々な問題を一方では作り出すが、それらを解決できるのもやはり科学技術と人間である。理工系の分野を専門として学ぶ場合でも、人文・社会科学分野、それを通じての人間社会に対する理解は欠かせないように思う。 過ぎ去った63年を振り返って、「少年易老、学難成」が実感される。今思えば大學の1,2年生の時代は、人生の最も華やいだ一瞬である。辛かったり、苦痛だったりした体験の大部分は、過ぎ去ってしまえば、皆甘酸っぱい思い出になってしまう。この数年を大切にして、若い皆さんがご健闘されることを祈念する。 |
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