◇「全学教育科目」の役割 | ||
理学研究科教授 蟹澤 聰史 | ||
1955年の春、初めて東北大学の講義を受けました。45年も前のことです。その頃、工学部生のための第二教養部は片平の一角にありましたが、他の1・2年生は三神峯の第一教養部に通いました。今の理学部核理学研究施設のあるところです。教室も先生方の研究室も古びた木造でしたが、春から秋にかけてはとても長閑で良いところでした。しかし、冬は蔵王おろしが吹き抜けるような状態でした。 今は、一般教育は全学教育と改称され、その中に転換教育というのがあって、受験勉強に疲れ果て伸びきったゴムをリフレッシュする役目をするものと言われますが、当時は全てが転換教育そのものでした。ですから、当時の先生方のお名前も講義の内容も覚えています。特に、専門にあまり関係のない文科系の授業に興味がありました。とても個性的で風格のある先生方ばかりでした。これこそ大学なのだと納得しました。この辺の事情は学報に紹介しました。 地学実験の受講者は10人ほどで、竜の口や太白山に出かけ、帰りには先生方から果樹園やイチゴ園でご馳走になったりしたものです。化学実験では、都市ガスがまだ入っておらず、石油を気化させてバーナーの燃料にしていました。みな手作りのものばかりでしたが、面白く実験が続けられました。 1957年には第一、第二教養部が統合され、続いて川内に移転して川内分校に、さらに1964年には教養部となりました。米軍が撤退した跡の兵舎、教会、将校クラブなどの木造の建物が教室や研究室として利用されました。今でも当時の名残の白い建物がいくつか残っています。その頃、私も運良く助手として教養部に採用されました。その直後、教育学部の教員養成課程が宮城教育大学として分離され、理学部や工学部も青葉山に移転しました。川内のキャンパスも次第に整備され、実験棟・講義棟や研究棟が完成しました。しかし度重なる大学紛争によってキャンパスは荒廃し、実験棟も研究棟も封鎖され、教育も研究もままならぬ日が続きました。この頃、全学の中で教養部教授会がほとんど一手に学生問題を引き受けていたのです。教養部改革をしなければとの声が次第に揚がり、教授会の議題に毎回取り上げられましたが、実際に改革が実現したのはそれから20年以上も経ってからでした。 この間、学生の数も増え、気質も変わりました。カリキュラムの改訂により、パンキョウと揶揄されて人気のなかった一般教育も全学教育と名称が変わり、それぞれの科目の名前もちょっと聞いただけでは何をやるのか分からないようになりました。今はその名前の示すとおり、大学全体を挙げて全学教育に取り組むようになっています。名実ともにそうあって欲しいものです。一方で、教養部が消滅して7年、川内キャンパスからはほとんどの理科系教官が姿を消してしまいました。先生方は自分の講義の時間だけ川内に現れて、終われば研究室に戻ってしまいます。希望に燃えて入学した1・2年生は講義のとき以外は先生との接触もままならぬようになりました。学生実験棟の整備などは毎日のように行う必要があるのですが、どうなのでしょう。川内キャンパスと青葉山とを往復する学生諸君は、とくに冬道などではいかにも危険です。 今では講義室も実験装置も整備され、ビデオやLLなど視聴覚機器が導入され、先生方も講義ノートをワープロで作り、いろんな資料を加えて学生に配布するようになりました。おそらく、先生の話を一語一句聞き漏らさずに必死になってノートを取るという光景はもうないのではないでしょうか。それはそれで、とても分かりやすい講義ができていいのですが、学生はプリントを貰うと全て分かった気になり、授業にはでているのに無気力に漫然と聞いているだけのように思えて仕方がありません。 最近は全てが能率主義というかすぐに役立つものばかりを追い求め、基礎科学や人文科学などが疎かにされている風潮がありますが、一見無駄なことに見えるなかに、実は人格形成にとても重要なことが含まれているのではないでしょうか。若い柔軟な頭の時代に、直接専門には関わらない講義を聴いたり、友人と議論したりすることが必要なのです。これからは環境・エネルギー問題、遺伝子操作、臓器移植などを避けて通るわけにはいかないでしょう。新しい世紀を目前にして、人間性回復の方向を模索しなければならないことを実感します。全学教育でもっとも必要な領域だと思います。 一方で、学部や大学院に進学した学生を見ていても、自分でテーマが見つからずひたすら指導教官のお達しを待つ、実験も自ら汗してデータを出すことをせずに、専らパソコンに向かってなにやら図を描くといった光景が見受けられます。リンゴの皮むきもできず、マッチの擦り方も知らず、ましてハンダ付けやガラス細工で手作りの装置を組み立てることができないようではとても創造的な科学は考えられないでしょう。私の専門では、岩石や鉱物の分析をよく行いますが、最近は高価な機器分析が幅を利かせています。その基本になるのは面倒な重量分析で得られたデータであることを知らない人が多くなっています。また、フィールドワークなど、地味で時間のかかる研究も必要なのです。東北大学の学生諸君はこのような泥臭い仕事をものともせずに取り組むという気概を持っていただきたいと思います。また、このような方向の重要性を若い学生諸君に認識させるような教育こそが真に独創的な伝統を守るものであり、「研究第一主義」とは、現場の研究者が第一線で研究に取り組む姿勢を通して教育を行うことによって維持されるものではないでしょうか。 |
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